なぜ表現するか

なにか物を書くとき、思いつきでバンバン書き進めているときは気分がいいんだけど、実際出来上がったものに読み応えがあった試しがあまりない。
自分が今まで生きてきた中で一番長く書いた文章はおそらく大学の卒業論文で、それも2万字だかそれくらいの、分量的には大したことのないものだったと思う。書いてて楽しかったのは間違いないし、教授は面白がってくれたらしい。

読み応えがあろうとなかろうと、文章を書くのは面白いことだと思うし、それが誰かの琴線に触れたとするとなおさら気分が良くなる。例えば…琴線に触れるというかややウケくらいのものだけど、Twitterで何かにつけて何かしらへの文句を言葉で装飾して書きつけたものにfavが飛んできたときとか、そんな感じのことがあるとちょっとだけ嬉しい。あんまりやるとカッコ悪いので毎日連発したりはしない。

単純な話、長かろうと短かろうと、自分は自分の表現したもの、それは文章でなくても、発声でも写真でも仕事の成果でも、それが少しでも誰かに影響したらいいな、と思っているのだろうということに、この文章を書きながら気付いた(気付いたところでタイトルも変えているし書き出しも変えた)。自分は自分をあらゆる方法で表現しようとしている…のだろう
しかもこれはおそらく、最終的な表現者が自分でなくてもよくて、たとえば自分が声を掛けた後輩であったり、一緒に仕事をした会社の制作物であったり、あるいは路上で煙草を吸いながら缶ビールを飲んだ人の思考の変化だったりするのだと思う。
だから自分は人と話すし、インターネットで叫ぶし、酒に酔った人間の介抱をする。これで他人の人生が変わるかも、と思いながら人と関係するのは結構面白くて罪悪感が生まれる。

とある人に「お前は小津(四畳半神話大系)だよ」と言われたことを思い出した。俺は幸せにならなくてよい!

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