父が急逝して、自分の仕事を内省し、共に生きるとは何かを考えた

7月末の平日夜、父が急逝した。療養していたわけでもなかったし、不慮の事故があったわけでもなかった。家族との夕食を経て、早めの晩酌タイムの中、座椅子でいつものように寝っ転がっているうちに、すーっと息が止まっていた、ということらしかった。

夜、家で仕事をしていて私は、母からの2度の不在着信に気づかなかったが、気づいたときには嫌な予感はした。我が家は電話おろか、LINEすら頻繁にやりとりがない家族だった。とはいえ、父の突然死だとは流石に思わなかった。

母と電話で話せたときには、病院で息を引き取ったことがわかったあとだった。聞いたことのない声で電話越しに話す母の話があまり入ってこなかった。小さい体で父に心臓マッサージをしたこと、病院で呼吸器をとめることになった瞬間、その脇におちつかない知的障害自閉症の成人男性2人をかかえていること、いろんなことが重なった瞬間に何もできなかった自分を悔やむしかなかった。

そんなわけで、私は急遽、翌日大分の実家に帰ることになった。私もさすがにあらゆる打ち合わせをキャンセルさせていただいて、メールでのご連絡が止まることをいただいていた方に予告をして、バタバタと実家に向かった。

私は地元の駅から車で15分〜20分かけた先に実家がある。その前に、大分空港から地元までは高速バスで2時間半ほどかかる。そのバスは1日3本で、飛行機が遅れたら乗れなくなるので、大分駅ゆきのバスにのり、そこから電車に乗って…というような、なかなか骨の折れる移動なのだ。実家に帰るときは空港バスの停留所や駅に両親のどちらか(いつもは母)が迎えに来てくれるようになっていたのだけど、さすがに難しく、近所の幼馴染のお母さんが代わりに向かえに来てくれた。(しかもバスに乗れなかったのでバス〜駅ルートである。いろいろと骨折れすぎた)昼前にでた移動は、飛行機の遅れなどもあって、実家についたのは20時ごろだった。

父の訃報から2日後には東京で仕事があったので、一旦東京に戻り、また帰ってきてから通夜と葬式を終えることができた。(一時実家をあけた間には夫が代わりに実家に入ってくれて助かった)

家族葬だったが、地元のケーブルテレビと新聞に訃報の情報を乗せたことで、父が定年まで務めた会社の方々をはじめ、地域でゆかりのある方にも参列していただいた。このローカルの仕組み本当にすごい。本当に感謝申し上げます。

兄も弟も、流石に当初は家で様子がおかしかったので、彼らなりにも父がいなくなったことはよくわかっていたのだろう。気持ちにあまり余裕のない時期が続いた。

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それから2ヶ月たち、五十日祭(仏教でいう四十九日)も終わり、いろいろまだありますが、平常運転となってきた。

ただ、父がいなくなり、特に実家では地味に生活のあらゆることが変わった。

兄弟の散髪につれていく人がいなくなった。いつも父は行きつけの散髪屋に、自分の散髪ついでに2人を連れていっていた。Webサイトも無いような、街の散髪屋だ。何年も行きつけたおかげで、そちらの店主には、突然動き出す兄の髪を切るのも安心して任せられた。

葬儀後に兄弟の散髪がそろそろ必要だとなったが、母はその散髪屋の名前も、「多分あそこのXXさん」というおぼろげな記憶だった。全部父がよしなにやっていた。さてどうなるか(どうしようか)と思ったが、その後「連れていけたよ〜」とLINEがきた。

実家から県庁所在地の大分市まで、車で高速にのって1時間ほど。彼らの日常の薬や歯医者は大分市内の病院に行っていた。これも父の役割だった。とはいえ、今となっては60代の母にとって、高速道路での車の運転はハードルになっていた。今後は地元の病院に変えるとか、なにか方法を考えると言っていた。が、ここは私が多分ときには帰って役割を担うのかもしれないとも思っている。

大体のことは母がうまいことやっていたのかなと思っていたけれど、知らないところで父がいろんな役割を担っていた。そういう自分が成し遂げたことや誰かの代わりに力になったことを、父は周りに言わないのだ。私(たち)はそれにちゃんと自覚がなかったなと思う。

もう1つわかったこともあった。地域の行事や役割も、父は退職後に顔を出していたので、知らず知らずのうちにスムーズにことを運べたことがあったんだと気づいた。兄弟の存在が地域の中で理解を得るうえで、父の地域での振る舞いも大いに影響していたと想像する。

加えて、葬儀や弔問に訪れてくれる人たち、葬儀でお世話になった方々と、兄弟の関わりはただ日常があるだけだった。

そんなわけで、父の置き土産もあり、私自身が地域でなにか貢献したわけでもない(なんなら高校卒業後からはほぼ気にもかけてない)のに、これを機に周りに非常にお世話になった。家族をほどよい距離感で気にかけてくれていたことがわかった。特別な状況下にあったこともあるとはいえ、同じ空間でいろんなことを共有したり、家族一同お世話になったり助けてもらった場面がたくさんあった。

そこでふと立ち止まるのだ。はて、私の仕事とは、社会のなんなんだ?インクルーシブってなんだろうなあ、という気がしてくるのだ。

以前とある方が、インクルーシブデザインとか新しいことをやっていても、そんなのに飛びつくのは都会の人で、地方のほうがインクルーシブのことをよくわかっているよ、というようなことを言っていた。が、改めてそれがよくわかる気がした。色んな人との接点が地域の中にあり、日常的になにかがあるわけではないけれど、こういう一大事のときには力になってくれる。日常も現状としてはなにか嫌な目にあうこともない。

さらに、ローカルの仕組みにも助けられた。先のケーブルテレビやら新聞の訃報情報掲載はものすごく重要である。ローカルの仕組みは、ローカルに残っている意味や価値がありすぎると痛感した。東京ではできない仕組みだし、これらに助けられた。

幼少期や思春期に見えていた景色とは、同じようなこともあれば、随分違うような気もする。なんだか生きづらいと感じていた背景の1つに、家族を取り巻く社会があった気がする。が、おそらく、20年30年という時間の中で、私たちも含めて学び変化したのだろうと思うし、私自身も見えてなかった景色があったのだろうとも思う。もっと早く気づいてれば、私は父にいろいろ聞いてみたかったと思う。時すでに遅しだが、気づいていても父にははぐらかされていたような気もする。

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長らく好きにやらせてもらったので、次は少しでも実家とその周りに力にならないといけないなと思う。地元に帰ることも今後増える想定だ。1年に1回帰るかどうかだったのが、突然の変化である。こうやって歳を重ねるのだなと実感する。

何より、実家にいながら、共に生きるとは何かをさらによく考えて、自分の仕事のあり方を考え直す。インクルーシブとか、共生社会とか、聞こえはいいけどなんだろうね。結局よくわからないけど、このときの経験は活かしておかないといけないなと思うわけで、そのために私は、引き続き自分に問いかけながら仕事をするのであった。


追伸:親の保険証書や年金証書のありかは知っておこうという教訓も得た。後々も色々あるので、「なにかあったとき」の準備はしておこう

追伸2:元気出すためにご飯にいこう!などありがたいのですが、こういうことがあったからこそ仕事しようと思ってます。何卒よろしくお願いいたします

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山田小百合
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