「自由研究は提出しません。」
世間は夏休み。
夏休みの宿題の風物詩といえば自由研究だけど、私はこれまで、自由研究という宿題は、中身のテーマを決める以前に「やらない」ことを選択してきた。大学院修士課程を出ておいて言うのもなんだけど、自由研究が大嫌いだった。(大好きな人は多数派じゃないと思うのだけど)
「自由研究って酷な宿題だ」と感じていた。自由研究のやり方なんて、誰も教えてくれないし、「研究」とは何かも、誰も教えてくれなかった。研究って何のことかわからなかった。きっと、テーマの決め方、研究の進め方、まとめ方…やり方さえ教えてくれたら、楽しくやっただろうな。そんなことを、大学院生を経た今となっては思う。
そんな私にも、中学生のいつだったか、唯一取り組んだ自由研究があって、それは、たまたま何かで手に入れた自由研究キットで、金属の錆び方の違いについて、実験して記録をとったものだ。結果もわかっているので内容もつまらないし、取り組んでいてもこれでいいのかわからないし、やる気がなさすぎて手を抜いたら綺麗な結果は出なかった。結果全然おもしろくなくて、理系には進められないと思った経験だ。
その後、こんなしょぼい自由研究を提出して恥ずかしいなと思いつつ、しぶしぶ提出したのだが、なんと小さな市の、自由研究の展覧会に、なぜか展示させられてしまったのだ。
これは私にとって事件だった。全く嬉しくないどころか、恥ずかしい物がさらされて恥ずかしさが倍増し、落胆した。もっと言えば、こんな程度の低い自由研究が学校代表として展示される時点で、地元での生活に限界を感じたことを覚えている。もちろん、展示は見に行っていない。
そんな私が、大学院に進学して研究したい!とか言っていたのだから、人生どうなるかはわからない。頭で考えているだけでは、新しいことは見つからない。なので、文献を読むし、実験や実践をするし、また文献を読む。そしてあるフェーズで何かを決めて、一歩を進める。研究をすること自体、そんなに上手じゃないけれど、研究のもつこの独特の苦楽しさが、とてつもなく好きだ。そしてその行動プロセスは、NPO経営をすることにも通じていると思う。大学院に行かなかったら、私はNPOを始めなかったかもしれない。
ちなみに、自由研究に関するおしゃべりを、ツイッターでしていたら、こんな言葉がとんできた。
”就活中や就業間もない若者の「仕事に就くって酷な課題だ」っていう心情が思い浮かびました。「やったことないのに課される課題」だし「やり方さえわかれば楽しいものたち」だし。”
そう考えていると、世の中「やったことないのに課される」「やり方さえ分かれば楽しい」課題に満ち溢れている。課題の難易度を上げれば上げるほど、高みから見える景色があって、私はまだまだ未熟だけど、それでも今までに見たことない景色をどんどん見ている。そして次の景色が楽しみで、今日も「やったことないのに課される酷な課題」に、もがきながら取り組んでいる。
昔の私に、研究ってホントは面白いんだよ、って教えてあげたい。それは、自分で新しく何かを見つけること。見つけることは苦しくて、面白いってこと。1つの課題をクリアすれば、もっと難問が待ち構えていること。それを乗り越えたら見える絶景があること。そして、苦しくて面白いを追求する経験は、意外とできる人にしかできない、尊い経験である、ということ。