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映画「愛国者に気をつけろ」を見て

昨日、ポレポレ東中野でドキュメンタリー映画「愛国者に気をつけろ」を観た。
今年の2月ごろに確か上映していたときに見損ねてて、再上映されるのを楽しみにしていたのだ。
しかし再上映期間が一週間弱という短さだったため、何とか予定をつけてチケットを予約して観に行った。上映は一日一回、18:30からだ。

この作品の主人公である鈴木邦男氏は「新右翼派」の政治活動家で、今まで70冊以上の著作を出している。
「新右翼派」というのは、右翼でありながら既存の右翼の枠に収まらない政治活動を行う流派のことだ。私は「右翼=ヤバい奴」と言う思い込みがあったのだが、鈴木邦男氏を見て右翼のイメージが変わった。
彼自身、三島由紀夫とともに自決した森田必勝に影響をうけて「一水会」という右翼団体を立ち上げて政治活動を続けてきた。場合によっては同じ「右翼」の人間とぶつかるし、「愛国者」に対してもぶつかる。彼は、そういう既存の「右翼」の枠には収まらない政治活動をぶれずに続けているという、右翼の政治活動家としてかなり稀有な存在だ。

作品中で、監督が鈴木氏の自宅に赴き、何度もインタビューを重ねている様子が描かれる。
彼自身はみやま壮という築年数不明のかなり古いアパートに三十年以上、一人暮らしをしている。その清貧な生活とは対照的に、政治活動を通してつながった人脈は個性的で華やかだ。

元警察官、元オウム真理教信者などを含む、普通の人はおよそ接点がないような人物との幅広い人脈を持っている。そして政治活動家という立場でありながら、彼はそういった特殊な人々だけでなくグラビアアイドルなどの若い女性たちにも幅広く愛されている。ここ十年の間、阿佐ヶ谷のライブハウスで「鈴木邦男生誕100周年」と名を冠するイベントが毎年開催されていることから、彼の人望の厚さがうかがえる。

それは、彼は「自分は右翼だ」という既存のフレームの中で思考し活動するのではなく、真に彼自身が持論をもって議論し「右翼」の枠を軽々と超えているからなのではないのだろうか。
一概に誰かを「敵」「味方」と決めつけることなく、いろいろな人にぶつかっていくからこそ、彼はあらゆる方面での豊富な人脈を築いているのだと思う。

この映画で、私が個人的に気付かされたことがある。
それは、自分がつい二項対立というパターンに無理やり押し込んで自らの思考を狭めているのではないか、ということだった。
私はどうしても、例えば「右翼と左翼」「資本主義と社会主義」などと二項対立で物事を考えてしまい、何かの発言をするときにどちらかの立場に立たなければならないとか、その立場上での筋を通さなければいけないと思ったりする一方で、それによって一貫することができない自分の主張に混乱することがある。
自分の考え方は自分だけのものであり、たとえば「右翼と左翼」というのは、便宜上、思想の傾向をざっくりと整理し概念としただけのものに過ぎない。
卑近な例に例えれば、自分と同じ志を持つ仲間として信じていた人が、自分のとっては相いれない思想に共鳴していたり、あるいは自分が好きだと思っている友人が、嫌いな友人と仲良くしていたりするときの困惑に近い。

人間とは、一概に一括りの概念で説明しきれないものであるのに、それに気付いたときは、もやもやとした気持ち悪さを感じてしまう。人間は説明しやすい現象を好むし、時には、自分が理解しやすいような安易な解釈のために現実そのものを歪めてしまうことさえある。
特に、相手に対して既存の概念が作る「フレーム」のようなものに無理やり当てはめて解釈しやすいものに曲解することは、相手を傷つける行為にすらなると思う。
しかし、一括りの概念にとらわれることなく思考し、行動を深めていくことはとても難しい。

作中の中で、鈴木邦男氏を取り巻く女性たちの内の一人の発言で、自分が正しいと思っている人間が一番危ない」という発言があった。
今でも終わらない宗教戦争はそういった思想が関係しているのだろうと思うのだが、ここではごく身近な例を挙げたい。

数ある「自分が正しいと思っている人間」のパターンの一つには、「常識を振りかざす人間」がいると思う。
私自身も、教育熱心な母親から「私は常識を教えているだけ、誰もが同じ事を言うことを教えているだけだ」といつも言われてきた。
しかし、その「常識」とはなんだろうか?誰がそんなこと言っているのだろう?

母親から「常識」を押し付けられたとき、幼かった私は何も言えなかった。何か実態のない絶対的なものに、ねじ伏せられているような屈辱感を味わっていた。
今では、母親がやたらと私を心配するようなことを言っても、笑って聞き流すことができる。
「まるで自分が常識の代弁者かのような話ぶりだけど、それはあなたの考えなんでしょう?」というふうに。

主語がない「常識」ほど、迷惑なものなものはない。かつての戦時中の日本で「お国のために命を捧げる」ことが名誉とされていたけど、今では全く考えられないだろう。
常識はうつろいやすく、無責任だ。それなのに私たちは、顔の見えない「世間体」や誰の意見でもない「常識」に縛られて大いに振り回されている。

鈴木邦男氏のように、自らの立場に捉われることなく、常に自分の言葉で語ることは簡単ではない。しかし、そうでなければこれまで以上にめまぐるしいスピードで移り変わる世界に、絶対的なものを掴むことは出来ないのではないのだろうか。明日には古くなってしまう常識よりも、絶対的な教祖を信じるよりも、頼りなくても自分の頭で考えて、自分の言葉で語っていこうと思った。

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