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ミュージアムというよりもアミューズメント:「バンクシー展」に行ってきた

午前中から始めた同人誌の編集会議が延びた上、連日の睡眠不足が重なって、夕方には疲労がピークに達していた。
平日の退屈さを取り戻すかのように休日にやりたいことを詰め込みすぎて、もうフラフラになっているのがここ最近の私の日常だ。

そんな日曜日の夕方、私はうつろな瞳で電車の手すりにもたれかかっていた。
東急東横線に乗って向かう先は、横浜で開催されている「バンクシー展」だ。

さすがに無理しすぎかなぁ、今日じゃなくてもいいかな、なんて考えが頭をかすめる。
しかし、コロナの影響でバンクシー展は日時指定の完全予約制になっているため、すでに数日前に購入していたチケットを無駄にするのは気が引ける。

横浜で展覧会というと横浜美術館というイメージがあるのだが、今回はアソビルという、横浜駅東口出てすぐの建物で開催されるらしい。

1階は飲食店、2階がバンクシー展になっている、「アソビル」という名前にぴったりとなにやら楽しそうな施設だ。横浜で待たせていた彼と合流して、2階に上がっていく。
日曜日の夕方だからなのか、日時指定でチケットを買ったはずなのに意外と混み合っている。少し並んでから入場。
客層は今時の若者が多く、普段美術館で見るような客層とはまた違う。
若いカップルばかりだったので、ここだけは一人で来なくてよかったと思った。

私自身、バンクシーについてはあまり知識がない状態でこの展覧会に来ていた。
「神出鬼没で正体不明のグラフィティ・アーティスト」というイメージだったので、意外と社会的にアーティストとして活動していることに驚いた。

ロックバンドのジャケットのデザインを手掛けていたり、ホテルを経営していたり、ひと夏限りのテーマパークを作ったりと、彼の活動はグラフィティ・アートの枠を超えて多岐に渡る。

それらを含むバンクシーの今までの作品を、今回の「バンクシー展」ではエンターテイメント溢れる手法で展示されている。

一緒に見た彼は、「面白かった!ミュージアムというよりもアミューズメントだね」と言った。その言葉に尽きるし、逆に「面白かった」以外の感想を抱かない展覧会だったと思う。

大抵美術館や映画館に行った後は、感想を言い合って議論が活性化して盛り上がるものだ。だけど、今回はそんなことはなく、バンクシーの作品は私たちに深い議論を発生させることもなかった。

なぜ、そう思うのだろう。
そんなもやもやとした疑問が解消されないまま、記憶は安いレモンサワーと串カツと他愛もない会話によって押し流されていく。

バンクシー展に行った友人の一人が「2000円の入場料の割に物足りないよ」と言っていたけど、作品の数について述べるのならば、展示会のボリュームとしては決して少ないものではない。
しかし展示会の後味として、アートを見たというよりはアミューズメントパークに来たという感覚に近いというのが、良くも悪くもバンクシー展を見た後の感想だと思った。
付き合いの浅いカップルや芸術に馴染みの少ない若者でも楽しめる内容になっている一方で、アート好きとしては物足りなさを感じるのではないだろうか。

今回の「バンクシー展」は、まるきりアミューズメント・パークだった。
彼が真に伝えたいメッセージそのものよりも、なにか表面的な、グラフィティとしてのカッコよさや、バンクシー自身のミステリアス性が先行してしまっているような印象を受けた。もちろん、深く楽しみたいのなら音声ガイドを利用するとか、関連書籍を購入していくらでも知ることができるはずだ。
しかし、今回のバンクシー展は、彼の作品についてもっと知りたいという深い関心を呼び起こすような展示ではなかった、と個人的に思う。

今回のバンクシー展では彼の出自やプロフィールに触れられていなかったし、それはきっとあえてバンクシー自身には触れずに、彼の人生という文脈なしで作品を紹介することで、よりミステリアスでカッコいいバンクシーというイメージを演出しているのかもしれない。
美術館の展示が持つ「お勉強っぽい退屈さ」を上手く排している展示ゆえに、多くの若者が集まり楽しんでいるのだともいえる。

そのアーティスト自身や作品をどう描き出すかという目的によって展示の仕方というものは、大きく変わってくるのだろう、と思った。

よくある展覧会といえば、大抵アーティストのプロフィールや美術界での立ち位置の解説に始まり、年代を追って作品を紹介していくという手法がよく見られる。
私はそういう見せ方に慣れていたし、その伝統的手法は、美術館が苦手な人には敷居が高く、堅苦しいものに思えるのかもしれない。しかし、そうした一見使い古されたような手法が、アーティスト自身と作品を理解するのに正統派の手法なんだな、とも実感した。

アーティスト自身の生い立ちとともに彼自身がどんな気持ちで幼少期や青年期を過ごし、どう大人になっていったか、ということに私は関心があるし、そしてその過程でどのような作品や残したか、という文脈があってこそ作品を深く味わえるのだと思う。
それは、例え自分と違う思想を持ち、自分とはおよそ共通点の見いだせない人生を歩んだ異国のアーティストであったとしても、その文脈を理解することで、そのアーティストに広がる世界を追体験すること、それを美術館という空間で体験することを、美術鑑賞の醍醐味だと感じているのかもしれない。

バンクシー自身は覆面アーティストということになっているが、実際はアーティストとしてスタジオを持っているし、インスタグラムで発信しているし、本も出している。
そんなバンクシー自身のプロフィールや経歴はある程度は公開されているようで、ショップに置いてあったバンクシー特集を組んだ雑誌にもそんな内容が書かれていた。
彼についての情報は意外にも多くあるものだと思うが、彼自身について、「バンクシー展」を通してもっと知りたかったし、作品の背景や文脈も含めて、バンクシー自身に対して立体的なイメージを掴みたかった、と思った。
と、そこまで考えては見たのだが、例えバンクシーの本を読んだり、インスタグラムをフォローしてみたところで、彼自身のことはわかるのだろうか?

バンクシー自身もアーティストとしての「バンクシー」を演じているのだろうし、そうでなければ覆面で活動したりしないはずだ。たぶん彼は自分の見せたい部分だけを見せている。私自身は「アーティストというのは自分の暗部や恥部を晒して表現するものだ」と考えているし、そういうアーテストを好む故に、バンクシーについて何となく納得がいかないのかもしれない。

一夜を経て今改めて「バンクシー展」を振り返っていたけど、なんだかけむに巻かれたような気持ちだ。うまく頭の中でまとまらないのは、寝不足のせいだということにしておいて、今日こそは早く寝ようと思った。


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