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「ぼくはぼくの持ち場を死守しよう。」

苦しんでいる人を見て、共感のあまり自分まで苦しくなってしまうことを『共感疲労』というそうです。

11年前の3.11、私は明らかにその症状に陥りました。
リアルタイムで津波の報道を見て以来ずっと、ニュースから目が離せなくなってしまって。

「共に在りたい。理解したい。」

そう思うのは間違ったことではないけれど、
結果、情報を追い求めて気持ちが疲弊し、助けに出かけた友人の牧師や宣教師の働きを応援しつつ何もできない自分を責めたり、
鬱っぽい症状が出て来たり、眠れなくなったり。

夫に極力報道から離れるよう言われ、テレビを消したことを覚えています。


これを読んでくれてる方にもいるのかな。
どこか闇に落ちていくような、あの感じ。
自分はなんて非情なんだろう。もっと大変な目にあってる人がいるのに…みたいな。

でも、その時に教えられたのが「日々の自分の生活を守る」ということでした。
自分を責めるのでなく、その力を別のところで使う。

日々の生活を守る
自分の本来の役割を果たす
自分の心と体を守る
食べて、眠って、主(神)に祈る

コロナにしても今回のウクライナ侵攻にしても、
良質なソースから情報を得ることや関心を持ち続けることはもちろん大切だけれど、
必要以上のエネルギーを奪われないようにすることも、とても大切。

今でこそ「共に在ること」にも「理解する」ことにも限界があることは身を以てわかるし、関心を持たないとかシャットアウトするということではなく、自分自身を守ることがいかに必要かがわかる。
そして、それは決して無責任なことではないんです。


一昨日、友人で「札幌第一こどものとも社」の代表でもある藤田進くんが、SNSで次のような投稿をしていました。

「毎日の暮らしに平和を。足元をすくわれないように。平和には愛が必要で、愛は他者と共にと育むもの。いちばん近くにいる他者は家族だ。世界は家族で溢れている。ぼくはぼくの持ち場を死守しよう。」

「そのとおりだ」と声が出ました。
言葉にできないモヤモヤを言葉にしてもらったような。

相手との関係性(家族でもどんなに親しくても)を育むのは愛で、その愛が平和には必要で、私にはその愛がないから神様にその愛を与えてもらいながら、苦しみの中にいる人のために祈りつつ、自分の持ち場を死守する。
それが今の自分にできることだと思えた言葉でした。進、ありがとう。

おし。今回も前に進めます👍


Be blessed EVERYBODY!!

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