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下北への道①

12歳の時に折尾の祖父母の家で「アド街ック天国」の下北沢特集を見て、絶対ここに住むんだと思ったのを覚えている。
2階のカーペットの敷き詰められた部屋の小さなテレビで。
なぜはっきり年齢や場所を覚えているかと言うと、
胃ガンで闘病していた母が一旦退院して、
私達と離れ、自分の実家である家で休養をしていた時期だから。
長崎から父の運転する車で福岡の母の実家へ。
私は12歳、弟は10歳、妹は4歳。

母は私の中学の卒業式の4日後、42歳で亡くなった。そしてわたしは今年42歳になる。

はじめて東京で住んだのは下北沢から二駅離れた東松原。
羽根木公園の横らへんの大家さんが同じ棟に住んでいるアパート。
小さいけれど清潔で、しかしなんと言っても8万5000円。
さすが東京・・・と地元で不動産を営んでいる父が苦笑いしたのを覚えている。
一昨年まで、20年きっかり住んだ東京で一番日当たりが悪く、坪面積で考えても一番家賃の高い家だった。

その後は下高井戸、梅ヶ丘と下北近辺をうろうろ10年。
隅田川に惚れて東に移り、
13平米の隠れ家みたいな清澄白河の1Rに4年、
不動産屋のトチりが転してラッキーな巡り合わせで50平米を超える清澄白河のマンションに家人と6年。

人も道も店も恋焦がれる程に愛して路地の裏まで歩き尽くして、でもまだ知らないと思っていた東京を離れたのは、
東京生まれ東京育ち一番住みたいところは新宿の紀伊國屋なんて言っていた家人が急に、
別のところも住んでみたい、犬も飼いたいし、と言い出したのと、
東日本大震災の時の、実際には街も人も変わらず動いているのにあまりに人が多いせいで、
隣の人の心情も信条も計りしれず、入り乱れて混乱というより狂乱みたいになってた時期をコロナになってまた思い出したこと。

2020年の5月の天気のいい日、近所を散歩していたら清澄白河の駅前で見知らぬおじさんに、「ちょっとちょっと、あなた!マスク!マスク!」と怒鳴られ追いかけられてから、
あ、これは今度また東京に地震がおきたら、天災じゃなく、人災で死ぬかもしれないと思う、と家で話したら、
何もしてないのに高校生の時に目つきが悪いと電車でチンピラに頭突きされて前歯4本を失っている家人に、「だから東京は人が多すぎるんだって」てあたりまえみたいな顔で言われ、ようやく東京を離れる気持ちになった。

東京のことをおもうと、街と人がからみあっていろんな記憶がよみがえる。
そして東京のことを考えると下北沢の景色が何層にもなってくる。

#2030年までの日記 #東京日記 #街の記憶 #下北沢

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