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私が許した怒りや悲しみは、どこに行くのだろうか

ふと下書きを見ていたら3年前に書いた記事が出てきた。たぶんずるずるに失恋してた頃だな。
読み返すとなかなか感情的で、自分に酔ってる気もして恥ずかしいが書いてあった感情は正直なので公開してみます。

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心が重くて冷たい。
久しぶりにそんな気持ちになる。多分きっと、薄く、心の底にそれらはずっとあって、たくさんの悲しみや怒りの、見ないふりがうまくできるようになっていたのだ。

シロクマ効果に抗いながら、変化できる者だけが生き残れるのだとダーウィンの進化論を信じてきた。

最初の頃は耐え難かったそれらにも、耐性ができて、私の日常にうまく溶け込んでいるように感じていた。

たくさんの怒りと悲しみを抱えながら生きてきた。
今までにないほどに。

それらを消すことを誰かに期待しても、叶わないことを知った。
それらを消すためのすべがないことも、知った。

だとすればそれと生きて行くしかない。許しながら。許しながら。 


許しながら生きることは難しい。
なぜ、私がこの怒りと悲しみを許さなければならないのだろうか、と思うこともある。
この怒りも悲しみも与えている方が何も感じていないことは理解してるからこそ、私がこんな風に苦しみながら「許す」ことに悩んでいる自分に納得がいかない。


言っても仕方のないことに悩み
悩んでも解決しないことに諦め
諦めるしかないことを許す


何度も繰り返しながら、私はここまで進んできた。
きっとこれからも、進んでいけるのだろう。多分。


私の心には沢山の愛がある。人を思う愛がある。
それは、私へ向けられる愛があるからである。愛されない人が愛することができない、というのは愛され方が分からなければ、愛する方法も分からないからであろう。

人間はいつだって、模倣することから始まるのだから。

人の傷付け方も模倣して学んだのだろうか。
かつて「あなたが冷たい人なのは、きっと同じような思いをしたからなのだろう」などと考えその悲しみごと包み込もうとする自分が大人だなんて考えていた。

でも私はそんな愛され方をされたことがなかった。

模倣できないものを実践できるほどの能力はなかった。
今になれば、そんな愛し方は間違いだった、いや私には役不足だったと思うが必死だった私も愛おしい。


思い返せば未熟で、幼稚で、と言えるほど今の私は大人ではない。
きっとまた、未熟で、幼稚な自分で生きていくのだから。


私は私のことを愛してくれる人のことを愛する能力しかまだないのだから。
そんな自分も今日は、許す。


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