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かい文書

これはかいくんがここ数日で引き起こした事件を受けて作成した文書ですが、一連の事件についての考察は一切しません。
あくまで私が興味があるのがかいくんが抱えるパーソナルな問題とそこから生じる周囲との軋轢と不和についてです。

私はかいくんのことをおそろくアスペルガーだろうと考えていて、そして私は実際に心療内科で診断された正真正銘のアスペです。

私はかいくんのことを周囲に流されて無意識のうち蔑ろにしたり、単純に他人(かいくん)を見下したいだけの人とは全く異なる動機でかいくんという存在についてアプローチしています。それはアスペという精神障害を抱える(推定)その当事者を観察することで、ひいては私自身が抱える障害とそれにより過去そしてこれから先の未来に引き起こされるだろう諸問題についてより洞察を深めるためです。
例えるならかいくんはスコープのようなもので、かいくんへの眼差しを通じて私は私自身の障害についてより理解を深めたいと考えています。

かいくんには人の気持ちがわからないのか?

Twitter上でこんなツイートを見かけた。

Twitter for Android

このツイートからは、ツイート主が以前からかいくんのインターネット上の言動を見て、かいくんは人の気持ちを推察する能力に問題があると考えていたということが読み取れる。
確かに対人関係で度々問題を起こしたり、人狼ゲームでの突飛なプレイスタイル、そして例の謝罪文など一見するとかいくんは人の気持ちのわからない、共感能力の低い、衝動的な行動をするサイコパスのように見えなくもない。

では果たしてかいくんは本当に他人の気持ちがわからないのだろうか?
私はむしろかいくんは人の気持ちを推察することに長けていて、非常に高い共感能力があると考えている。かいくんはお笑い鑑賞という趣味を持っていてM-1グランプリがはじまると各組が行う漫才を採点したり実際に応援しているコンビのお笑いライブに足を運ぶなどかなり精力的に活動している。お笑いを楽しめるということは、ハイコンテクストを理解しているということだ。かいくんは国語能力が低く行間の読めないわけでも、対人において生じる暗黙の了解が理解できないわけでもない。

かいくんは確かに人の気持ちがわからないように見えるが、それはイコールかいくんが人の気持ちがわからないということを意味しないはずだ。

実際かいくんの例の謝罪文を読み込んでみるとかなり正確に自分の行動が他者にどう受け止められるかというのを予測できているのがわかる。
かいくんは作為的にサイコに見られるような言動をとり、実際にサイコに見られるといういたって真っ当な予測のもと行動を起こして、予測通りの結果を享受している。

ただ一つだけ私たちから見て(あるいはかいくん自身にとっても)理解不能なことはなぜかいくんはサイコに見えるような行動したのかという一点につきる。

そしてそれこそがかいくんが社会に適合できない理由なのである。

ここで一冊の本をご紹介したい。
まず以下wikipediaから引用したあらすじを読んでみて欲しい。

『異邦人』作:カミュ

察しのいい方ならわかってくれると思うが、上記作品の主人公はかいくんだ(暴論)。文学というのはこれまで連綿と人間の正体、精神のありかに差し迫ってきた。かいくんが文学にされていないわけがなかったのだ。

まず強調したいのはかいくんにはムルソー同様(たとえ不条理であっても)支離滅裂な存在ではないということ。どれだけ理解しがたく、愚かしい行いをしているように見えても、かいくんの言語性IQは少なく見積もって110くらいはあって、平均的な人間よりも優れた知能をしているという事実。
かいくんはいわゆる知的障害なんかじゃなくてあくまで精神障害だというこの一点を確実に履き違えず認めてほしい。

だからかいくんには他人の情動を解釈して高度にトレースすることができる能力があるし。誰かが誰かのことを好きになったり嫌いになったり、そういう人間の感情のシステムをよく理解している。(ある意味では健常者よりも)

Twitterでかいくんが高校時代を思い起こす回があって、あれは本当に文学だった。思春期を迎え、周囲が自我を確立して社会性を身につけていく中でたった一人かいくんだけが社会性を持て余していた。自我がないわけでも社会性が身についていないわけでもない、ただただ持て余すのだ。
(本当によくわかる)

健常者向けリファレンス:

そもそも自我とはなんだろう?

健常者が年齢を重ねるに連れて当たり前に身につけていくそれはどういうものなんだろうか。
私はこんな解釈をしている。

人間は言ってしまえば関数みたいなものだ。
他人という入力があって、自我が出力される。
では変数は何か。それは社会だ。
自我という出力は他人と社会によって決定される。
つまり極論を言ってしまえば、自我なんてものはないということもできる。
ただし直観的に他者と自我というのは間違いなく切り離されているように見える。
おそらく他者と自我の間に横たわる距離がこころの正体なのだと私は愚考します。

参考文献:

※注!脳の大統一理論にはこんなこと書いてない

アスペひいては私やかいくんに欠けてるいるもの、それはこころ、つまりは自我と他者を切り離す適切な距離なのかなと思う。

ムルソーが自閉症スペクトラムなのかはわからない、かいくんだってそうとは限らないし、自分だってまあたった一人の医者にそう診断されただけだしなガハハハ。

…………………。


でも絶対に正しいといること、それは私たちはいつもこころを間違えているということだけ。
それだけがいつでも確か。

すべてが終わって、私がより孤独でないことを感じるために、この私に残された望みといっては、私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎えることだけだった。

異邦人はこの一文で締めくくられる。
まあ解説を付け加える必要の一切ない、これこそがという一文。やはり文学は本当にすごかった(至言)。


WEB漫画 胎界主より


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