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お前も鬼にならないか?

 私は月に1度みんなでテーマを決めてnoteを書くnoteサークルに所属している。今月のテーマは「鬼」だ。

 「鬼」といって、思い浮かべるものはなんだろうか。昨今はやっぱり大ブームのアレかな。まぁ、アレは避けて通れないよね。我が家の長女が、大ブームが来る前から大好きだったので、私も一緒に漫画を読んだけど、アレは鬼が「悪」としてだけ描かれるのではなく、「悪」になるだけの理由を持ち合わせていて、「善」の側と「悪」の側が紙一重であることを描いているところが私的にはグッと来るものがあった。

 私が「鬼」と聞いて思い浮かべるのは、怒っている時の母の顔である。私の母はいわゆる「教育ママ」であった。なかでも、1番その顔が思い浮かぶのがピアノの練習中の母の顔である。私はいわゆる「優等生」で、幼稚園の頃からピアノを習っていたので、合唱コンクールや入学式卒業式などで、合唱の伴奏をする子だった。中学生の頃は「伴奏と言えばsayaric」であり、サングラスに竹刀を持った強面の学年主任の体育教師が、ことあるごとに猫撫で声で私に伴奏を頼みに来た。
 「ピアノは1日休んだら、指の動きを取り戻すのに3日かかる」と母に言われていて、毎日最低1時間はピアノを弾くことを課せられていた。でも、小学校高学年になる頃には気がついていた、私には絶望的にピアノの才能が無いことに。しかも、まるで楽しく無い。ピアノを弾くことは義務でしかなかった。それに「伴奏と言えばsayaric」のポジションから降りるのが怖かったのだ。だから才能が無い分、必死で練習することでカバーしていた。合唱コンクールの時は毎回吐きそうだった。でも母はきっと「私が習いたいと言ったからやらせてあげた」「ピアノが好きだった」そう思っていると思う。
 そんな母も小さい頃からピアノをやっていたらしく「私の時はもっと厳しかった、こんなのは生温い」と良く言っていた。私の上達は自分の時よりも遅い、とも。私のピアノの練習中に横に立つ母の怒った顔。それが鬼と聞いて1番思い浮かぶ顔である。私は当時もそして今でも、ピアノが好きでは無い。高校受験の時に「ピアノを辞めても良い」と母に言われて、辞めてからほとんど触っていない。ピアノを辞める時感じたのは「やっと解放される」だった。そして大人になった今もクラシックへの漠然とした拒否反応がある。

 今自分が母親になってみると、母は割と若くして私を産み、自分は子育てに明け暮れているのに、世はバブルで友達は遊んだり海外旅行に行ったりバリバリ働いたりしているのを横目にきっと苦しかったんだと思う。その苦しさを「私を優秀に育てること」に全振りしていたんだと思う。なまじ、私がそれに付いていってしまったので、益々拍車がかかってしまったのかもしれない。親というものは、「自分はそうならないように気をつけよう」とかなり自分を律してないと、そっちに引っ張られてしまうと思う。子どもを育てていると、至る所に「お前も鬼にならないか」という誘惑が存在する。自分が鬼になったことで、子が優秀な成績を残す。そうすると、鬼になったことが肯定される気がするのだ。ピアノでプロを目指すことなんて考えてなかったのだから、もっと音楽の本当の楽しさを知っていたら、今でも趣味で続けていけるようなものになっていたかもしれない。中学生の時に「最優秀伴奏賞」をもらったりしても、大人の私に残っているのは、当時私が所属していたテニス部の先輩も伴奏をしていて、私が最優秀賞をとったことによって、しばらく口をきいてくれなくなった思い出だけである。

 今、娘(次女・中1)がサッカーをしているが、彼女が3年生か4年生くらいの時、「サッカー選手になりたい」というくせに、自主練も全然せず、リフティングもほとんど出来ず、インステップキックも全く出来ない。業を煮やした私は、近所でやっているという女子の県選抜の練習の見学に次女を連れていった。こんなに上手い子たちがいるんだからもっと頑張れと、次女に発破をかけるつもりで。そうしたら次女は「他人と比べないで!!」と怒って、「もう帰る!」と言った。その瞬間は次女に失望した気持ちになったのだが、のちに気がついた。間違っていたのは私だった。私は「お前も鬼にならないか」という誘いに乗りそうになっていた。危うく毎日の練習を課すところだった。私のピアノみたいに。そして、自分が嫌だったあの怒っている顔の母になるところだった。その件については、後日次女に謝罪した。その後も何度か、「お前も鬼にならないか」という声に、そちら側に落ちてしまいそうになったが、鬼のような顔の母を思い出しては踏みとどまった。そして次女が高学年になる頃にやっと「私は子どもたちにとって、充電しに帰ってくる安全基地で居られれば良いや」と吹っ切れた。怒るべきところでは怒るけれど、怒るべきところというのはそんなにたくさん無いのではないか、と気づいたのだ。

 ただ今でも、子育ての正解なんて分からない。ただただ、子どもたちが思い出す時に鬼の顔の私じゃないようにしたい。最近、そればかり考えている。ただもちろん、あえて鬼になることで子どもが飛躍的に伸びる、子どもをちゃんとさせる、そういう人を否定しているわけではない。そういうケースもあると思う。私だって鬼の顔して怒る日だってある。正解なんてわからない。全ては結果論であり、子どもはそれぞれが違うのだから、完璧な対応なんてだれもわからないと思う。だから、皆目の前の子どもを見て必死に試行錯誤するのだと思う。きっと、私がピアノを弾く横で鬼のような顔をしていた母も。


 私は鬼にはなりたくはないが、鬼にも、鬼なりの理由があるのだと思う。鬼の背景を知りもせずに、鬼に豆を投げることは私には出来ない。

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sayaric
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