とある街中を歩いていると、タグラグビーコーチ時代の教え子に遭遇。 当時、彼女が小3〜小4の時教えていた。今や高3で春からラグビー推薦で大学進学が決まっている。 彼女は昨年末、女子ラグビー東軍代表として、花園開催の女子U18代表戦に出場。その勇姿を目に出来た。感動感激の一日となる。
大学ラグビー部夏合宿が終わり、無事帰京。数日のオフを挟み、秋シーズン開幕に向けての練習が再開。 1カ月蓄積された疲労は数日のオフだけでは抜けず、重い身体に鞭を打って練習や雑用をこなした。 8月末の東京はまだまだ暑さが厳しかった。 僕は夏合宿からポジションをウィングからフルバックに変更させられた。 同じ一年生のフルバックはAチームとしてレギュラー入りしている1名を除いては僕だけだった。 その為、同じポジションの先輩からの圧力は全て僕一人に来たので中々ハードな日々が続いた。全体練
高校ラグビー部の夏合宿も厳しく、過酷だった。 大学ラグビー部の合宿は期間だけでも4倍の上、内容も高校と違った過酷さがあった。 少なくても高校1年の夏合宿までは雑用は一切なく、優しく扱ってもらえた。折角は確保した新入部員が減らない様、春シーズンは優遇された。 夏合宿と共に上級生と同じ練習内容に練習時間。 そして夏合宿の途中には2年生から雑用の引き継ぎがあった。 夏合宿を境に一気に過酷になって行ったのである。 大学ラグビー部の夏合宿は入部と共に与えられた雑用に加えて、上級生の洗濯
今から22年前、当時ラグビー選手として活動していた僕は所属チームの試合に出るべく、対戦相手のグランドへ向かっていました。 上野駅で電車が来るのを待っていると、1本の電話が僕の携帯電話に着信。 出産が近づいており、帰郷していた元妻の実家からの電話で、産まれるかもいれないという内容。 僕はすぐにラグビー部の関係者に電話で事情を説明し、帰宅。 急いで支度をして九州へと飛行機で向かった。 思ったより時間が掛かり、実際に娘が生まれてきたのは翌日の14時位。 あの時の感激は忘れる事はない
ラグビースクールコーチ時代の教え子達が大学生になっている。いわゆるラグビー強豪大学に10人以上が進学。ラグビー部にも入り、日々練習に励んでいる。 そのうちの数人はレギュラーポジションを勝ち取り、シーズン開幕から公式戦に出ている。 昨日は母校ラグビー部で所属リーグの優勝の行方を占う上での大一番に教え子が出場。 教え子は5トライの大活躍でMVPも獲得。母校も対戦相手に公式戦で数年振りの勝利。 教え子の躍動に胸が熱くなり、彼が頑張ってラグビーと向き合ってきた姿を小学校時代の数年間向
夏合宿でのポジション毎の打ち上げが終わり、宿舎に戻ると多数の部屋で飲み直しが繰り広げられていた。泥酔し、ここであまり触れることのできない様な事も起きていた。 僕は同期数名と廊下にある椅子に座り、語り合っていた。 語らいの中で合宿を振り返ると一生懸命にやってきたつもりなのに練習試合がJチーム(10軍)での1試合のみの出場だったこと。チーム内での立ち位置が自分がイメージしていたよりもはるか下にいたことにやり場のない悔しさが込み上げてきた。僕は花園も出ているし、オール北海道にも選ば
大学ラグビー部1年生の夏合宿も終わりが近づいていた。結局、練習試合の出番はJリーガーとしてJチーム(10軍)での1試合のみだった。 後はひたすら練習と雑用の日々。僕は思い描いていた自分のあるべき姿とは かけ離れている現実を受け止めきれなかったが、日々あっという間に過ぎる時間に流されっぱなしだった。 元ラグビー日本代表監督を務め、スコットランド代表に勝利。第2回ラグビーワールドカップでは日本代表初勝利に導いた宿沢さんがこの年に1年限定で大学ラグビー部監督を引き受けた。1年で数年
夏合宿で唯一の練習試合。結果としては勝つことができたが試合全体を通して、前半の試合内容が不甲斐ないという理由で延々と続いた罰練習。 罰練習の最後は10m位離して立てられたタックルダミーに往復してタックルを繰り返す。1人10往復を数セット行った。 砂まみれになりながらフラフラの状態で起き上がっては走り、タックルを繰り返した。 後半のみの出場の僕ら1年生数名は自分たちの任務を遂行し、逆転勝利に確実に貢献した。それにも関わらず、一切褒められることも称えられることもなく、コーチや先輩
ひたすら雑用と練習が続いていた夏合宿。ようやく練習試合への出場が決まった。チームはJチーム(10軍)のフルバックで対戦相手は神戸にある大学だった。 僕は10軍で相手をしてくれるチームがあることに少し驚きを持つと共にJチームという一番下のチームでの出場することへの悔しさに包まれていた。 Jチームに入ると他チームに入っている同期からJリーガーかとからかわれた。 Jチームは正ポジションで人数が揃わない為、違うポジションで出場する先輩が数人おり、戦力的にもかなり厳しい点は否めなかった
夏合宿は春シーズンに怪我で練習を休んでいた選手が多数復帰するので、必然的に練習できる人数が増える。よってチーム数も増え、最大Jチーム(10軍)まで存在した。 10軍は正規のポジションと違うポジションで試合に出る場合が結構ある。 僕は春シーズンはずっとウィングだったが、夏合宿からフルバックをやることになった。1年生のフルバックが長期オフ中に退部届を出し、辞めてしまった。1年生のフルバックがラグビーの特別推薦で入部し、既にAチームで出場している1人のみとなってしまった。 その為、
大学卒業後、20年近く在籍していた社会人ラグビー部の先輩からLINEによるメッセージが届いた。 ラグビー部の先輩が急逝したいう内容。 特に持病や体調不良など聞いておらず、最近もSNSで元気にラグビー部の夏合宿にスタッフとして参加した様子を投稿していた。 僕が大学を卒業して入社した時、関東社会人ラグビー3部を優勝し、2部に昇格した初年度だった。僕は途中、会社を辞め転職したが、ラグビー部は辞めずにそのチームでラグビーを続けた。 2部に昇格後、成績が振るわず2回の3部との入れ替え戦
夏合宿では最上級生の4年生がいつも以上に厳しくなった。大学ラグビーでは大学4年生が主役と言っても過言ではない。 大学ラグビー最終年を最高の形で締めくくる為、最後の夏合宿に掛ける思いは強い。 1年生は複数人で組んで行う練習では必ず、4年生と組まなければならないルールがあった。4人一組だと、4年生二人に1年生が二人で組む。 4年生は組む1年生によっては同じ練習でも辛くなるので、組み合わせは重視する。(走るメニューであれば走力がある1年生が重宝される) 夏合宿は最初のメニューからい
バスがセミナーハウスに着くと、一年生はすぐに荷物の荷下ろしを行った。 2年生以上の上級生たちはセミナーハウスの中へ次々と入っていった。 荷下ろしが終わると一年生も各自、部屋へと移動。部屋はポジション毎に 大部屋(8~15人位)に分けられている。 AチームとBチームのメンバーは別途、チーム毎に4~5人ずつで何部屋かに振り分けられていた。 セミナーハウスは前年に作られており、とても新しく綺麗な環境でしかも 練習グランドが目と鼻の先にあるのは有難かった。 セミナーハウスは大学の施設
初めて迎える大学ラグビー部の夏合宿。その前に僕は飲み会で知り合った女性との恋を実らせるべく、夏合宿への準備と同様にラストスパートを掛けていた。 当時は携帯は普及しておらず、基本固定電話で連絡を取り合うしかなかった。その子は学校の寮だったので、中々繋がらない女子寮へ何度となく電話を掛けた。 その子はその年のNHK朝ドラのヒロインに似ており、何とかその子を射止めるべく残り少ない長期オフを過ごした。 ようやく漕ぎつけたその子と二人で飲みに行く機会も活かしきれずにやんわりと振られる結
大学ラグビーの夏合宿はチーム分けにより、宿舎での部屋割が行われる。 一度、決められた部屋は夏合宿終了まで変わらない。 僕は大学2年の時、Bチーム(2軍)スタートとなったので同部屋もAチームもしくはBチームの先輩方と一緒の4人部屋。 下のチームは10人以上の大部屋で、上のチームとはそこからして待遇が違う。 僕の部屋は何故か夕食後のミーテングが終わり、消灯までの時間にいつも4年の主将が遊びに来ていた。 同部屋に仲の良い4年の先輩がおり、その先輩を訪ねてきていた様だ。 束の間の寛ぎ
大学ラグビー部の夏合宿は春シーズンが終わると約1カ月の長期オフを挟んで行われる。この長期オフを夏合宿に備え、いかに過ごすかで個人間の差が生じる事となる。束の間のオフにトレーニングを怠り、のほほんと過ごした後のツケは計り知れない。 夏合宿が始まり、自分自身の準備不足を感じた時には後の祭り。 日々の厳しい練習や試合に体力や気力が必要以上に削ぎ落されていく。 僕は大学2年の夏合宿でこれを経験。地獄の底に転げ落ちた気分となった。 この年の春シーズン絶好調で、春シーズン初戦がBチーム(