さやもゆ読書録『読書会という幸福』向井和美著 さやのもゆ
『読書会という幸福』
(向井和美/著、岩波新書2022)
本書を読んだきっかけは、読書家の知人の方からの紹介であった。
私自身、地域の読書会に参加するようになってから、今年で6年目になる。
その間、2020年より世界中に蔓延した新型コロナウイルスの感染拡大期には、何度となく中止や延期を余儀なくされた。
いつ終結するのかも分からない日々。
もどかしい思いをしたが、この時の経験で直接の対話による読書会が、いかに大切であるかを痛感したのである。
そうした事も手伝って、他の読書会のことも知りたくなり、本書を手にしたのだった。
著者は翻訳家であると共に、学校に勤務する図書館司書でもある。
7章からなる本文の第1章は「読書会に参加してみよう」。
国内外の読書会スタイルや潜入ルポ(第2章)など、現代の読書会事情や運営の実態に触れながら、読書会を主題にした文学作品も紹介している。
欧米では、読書会が地域コミュニティの一環として開催され、刑務所内でも受刑者の更正プログラムに導入されているという。
一方の日本では近年になって読書会が復活したとされるが、コロナ禍がデジタル化を加速した世情もあり、遠方からでも参加可能なオンライン読書会が主流を占めている。
対面の読書会でも、個人の主宰から都市部を中心とした大規模なものまで、実に多様だ。なかには課題本の作者等の関係者を招待するという、趣向をこらした読書会もあり、早々に満席御礼・キャンセル待ちが出るほどの盛況ぶりだとか。
開催形式もオススメ本を紹介し合ったり、朗読を取り入れたものなどーさまざまだが、ここでは「読書会の醍醐味をもっとも深く味わえる(本文20頁)」として、〝決められた課題本を参加者全員が読んできて、感想などを話し合う手法〟を推奨。
第3章「司書として主催する」では、学校図書館の運営に携(たずさ)わる中で、読書会の推進に苦心したエピソードが語られる。
思うように生徒が集まらなかったり、話し合いが盛り上がらないなどー。
「生徒たちは、本を読んで意見を交わすことに慣れていない(48頁)。なにしろ、授業でも(略)生徒同士で議論をしたり感想を言い合ったりする経験をしてこなかったのだから無理もない(49頁)。」
「一冊の本を読んで、自分の心に響く一節を切り取ってきて、何がどう響いたのかを言葉にするには、ある程度の読書量と人生経験が必要だ。わたし自身はじめて読書会に参加したころは、ほとんど発言できなかったし、ましてや高校生のときに、感想を迫られてどれほどのことが言えたか、まったく自信がない。それを思えば、生徒たちの気持ちも分からなくはないのだ(本文48~49頁)」。
語彙力・言語化能力では発達段階の彼らにとって、学生時代の読書会経験は、たとえ発言出来なかったとしても良い訓練となるはずー。
試行錯誤を重ねつつ、何とかして生徒たちに読書の面白さを伝えたい。
読書会の魅力と価値を信じて止まない著者の、奮闘ぶりがうかがえる。
よくよく考えてみれば、大人でさえ、いざ読書会に参加となれば、結構細かいことを気にするものだ。
「読書会って、いったい何をするの?」
「本の感想を人前で言えるか不安」
なかには、「知らない人ばかり集まる読書会に参加するのが苦痛」と、尻込みする人も当然居るだろう。
そこへ行くと本書では、著者自身の成長過程における読書姿勢の変化や、読書会に初参加した当時の様子がありのままに語られていて、親近感を覚えた。
いくら読書好きといっても、読書会に参加して始めから、何でもすらすらと言えるものではない。
ほかの参加者の感想やものの見方・考え方を聞いているだけでも、十分意義のある行動であると、著者は述べている。
現実を忘れて、ひとりで物語の世界を楽しむ「内向的な読書」から、一冊の本を通じて「人と人とが交流する読書」へ。
著者自身が変遷をとげていった過程を本書に辿ると、年月をかけた読書の積み重ねと変遷の軌跡を見ているようだ。
そして、今にあって揺るぎない理念か確立した形で、実を結んでいる感がある。
効率よく早急に成果を追い求める手法では、脆弱な結果しか得られないであろう。
また、各章の文末には「読書会を成功させるためのヒント」の項を設け、読書会の運営にあたって考慮すべき点や、参加者同士の交流のあり方、加えて課題本の選定方法などをアドバイス。
本書の全編を通じて、著者の30年来にわたる読書会経験と、教育現場での実践に基づいた持論が展開されており、説得力を感じた。
すでに読書会を経験しており、さらに対話の質を高めたいとする読者には、一読をおすすめしたい。
続く第4・5章(文学に生かされて1・2)は、著者の所属する読書会遍歴が綴られている。
課題本には、おもに欧米をはじめとした世界各国の古典文学作品を選定。
見るからに、最後の頁までたどり着けるかが危ぶまれるラインナップだ。
「チボー家の人々」全13巻(ロジェ・マルタン・デュ・ガール)、「人間の絆」上・下(モーム)など。
35年間にわたる読書会で実に180作品を課題本に選び、メンバーと共に読了してきたという。
課題本の選定について、著者はこう振り返る。「読書会の利点は(略)、自分では手を出さないような本や挫折しそうな本でも、みなで読めばいつのまにか読めてしまうことだ(はじめに/6頁)」。
たとえそれが、大昔に書かれた古典文学であろうと、遠い過去の人物像は百年後の現代人にも通じるものであり、人としての根っこの部分は変わらない。
だからこそ読者もまた、物語と時を同じくして本の中に生きることができる。
登場人物を友とし、あるいは自身の投影を見ることもあるだろう。
そうして客観的な視点が生まれ、己を知ることにも繋がっていくのだ。
「本について語り合うことは、人生について語り合うことでもあるのだ」。(本文5頁)
こう述べる著者の人生と、本の世界観に生きる登場人物の人生を交錯させた、ひとつの物語を読むような心地を覚えた。
本を読んで思いを深めたとしても、それを普段の会話に持ち出して、話題を人生観にまで掘り下げられる事は、なかなか無い。
だが読書会なら、それが可能になる。
「生や死や宗教など、日常生活ではまず口にしない話題でも、文学をとおしてなら語り合える。」(はじめに/6頁)
それに「ほかの人の意見を聞くことで、自分では思いもかけなかった視点を得られるのも読書会の醍醐味だ。ひとりで本を読み、物語の世界を味わう段階から一歩踏み出し、読書会という場でアウトプットすることで、自分の考えがはっきりとした形になっていく(はじめに/6頁より)」。
第6章「翻訳家の視点から」には、本書ならではの特性が現れていると言ってよい。
それは、著者の所属する読書会メンバーの大半が、翻訳者であることだ。
一字一句を逃さず、妥協なく対訳していくー緻密かつ膨大な作業における学びと自問自答。、思えばこれこそが〝究極の読書会であった〟と、回顧する。
最終章「読書会の余韻に浸る」では、読書会の課題本をもとに語られた内容を〝メーリングリスト〟として紹介し、巻末付録(読書会報告)に「『失われた時を求めて』を読む」を収録。
ひとりで本を読むのも良いが、みんなで読み合うと視野が広がり、味わいも倍増する。
さらに読書会記録を読み返すことで、一度は読了した課題本が再びよみがえり、さらに余韻が深まっていくのだと。
メンバー構成も大いに関係しているが、読書会報告(メーリングリスト)は、読み進めていくうちに課題本を読んでみたくなるほど、充実したものである。
本書は読書会を論じているが、むしろ著者や周囲の人々の人生を、本というフィルターを通した物語に描いているように感じられた。
どちらかと言えば、これから読書会を運営・参加しようとするビギナー向けの指南本、というよりも、多少なりとも読書会を経験した読者と共に、その魅力と醍醐味を分かち合える内容である。
そして、読書会を内実あるものに運営することが、維持継続には不可欠な要素であるとも。
著者は「いったん読書会の魅力を知ったら、もうやめられない」としつつも「読書会をたのしむには、それなりの工夫が必要であり、ながく続けるには、ひとりひとりの努力が欠かせない」(本文6頁)という。
読書会そのものや、本の世界観を楽しめる企画性はもちろんだが、対面の交流でつながる機会(時間)を別枠でもうけることも必要であると。
人と人との交流において、お互いを尊重し合う関係に、年齢や立場という垣根はない。
一冊の本を前にして、全ての人は対等であり、横のつながりでもあるのだ。
参考・引用文献;
『読書会という幸福』(向井和美/著、岩波新書2022)