地味で平均的な記憶のよすが。
今日読んだ本。
『檸檬のころ』は、田舎の高校を舞台にした連載短編集。あとがきに地味な人なりの青春をいつか書きたい、その地味な生活に輝く一点の星にスポットを当てて書こうと決めたとある通り、普通の高校生の平均的な生活のなかでの悲喜交々がきらりと輝いていた。
スクールカーストの上にいてキラキラと輝くお手本みたいな高校生でもなく、教室の隅にいて我が道を行くそれはそれで個性的なオタクな高校生でもない。
至って平均的な、これといって特徴のない高校生。私もそうだった。
ももクロのあーりんが「若い頃ギャルだったって言いたいから今ギャルになりたい」と言っていたのが、今ならなんとなくわかる。
私の高校生活には、その頃を振り返るためのよすがとなるようなものがないので、常にぼんやりとしてる。
派手な遊びをしたわけでもないし、自分の好きなものにとことん熱中したわけでもない。
地味というか、平熱で平らな高校生だった。
あーりんの言ったニュアンスとは違うかもしれないけど「若い頃ギャルだった」という言葉があれば、いろんな思い出が蘇ってくるような記憶のフックになったかもしれない。
何かに挑戦するとか何かを成し遂げることが素晴らしいと評価されるのは、向上心やどれだけ成長したかという観点からだろうけど、後になって振り返った時にそのことが強く記憶に残って、確かに自分には過去があるってことを認識しやすいという利点もある。
流行にのることだってそう。
流行り物を取り入れておしゃれをすることは、軽薄に見えるし、浮つかず地味に目立たず地味に制服を着ていた方が無難だ。
でもその流行が廃れて随分と時間が経った時に、その当時の流行を冷めて見ていた人よりも、流行に身を委ねていた人の方が過去の思い出が濃密で煌めいてみえる。
この連載短編集に出てくる人たちはみんな地味で、その記憶のよすがとなるものもオロナミンCや自転車というありふれていて、当たり前に埋もれてしまいそうなものばかりだけど、そうだからこそ、地味な私にもそうした高校生活があったような気がしてくる。
実際にはなかったかもしれないけど、過去にそんなことがあり得たような、きっと当時の私にはわからなかった、煌めきがあったんだろうな、とも思わせてくれる。
派手ではなく地味で平均的な中にも、あり得たかもしれない私の煌めき。
そんなものが微かに見えた。