最近の読書事情と初雪について
そういえば先々週、スウェーデンのストックホルム地方では初雪が降った。朝、連れがカーテンを開け、私に起きるよう差し向けてくる。メガネをバスルームに置いていたので、視力が悪いままバスローブを着て向かう。メガネをかけた後、朝食の準備をしている連れのいるキッチンに顔を出すと――窓から見えた景色は雪だった。彼は私がいつ気付くのだろうかと待っていたそうだが、まあ彼にとっての期待通りの反応を私はしたのではないだろうか。
私は神戸の海側の出身なので、雪とは縁遠い生活を送ってきた。神戸の中にも色々あって、山側に住む人などは雪や氷で生活に不便がでることもあるそうだが、そういう点でいえば、私は海側かつオフィス街にひっそり佇む一人暮らし向けの賃貸に母と長く暮らしていたので、割に不便なことというのはお金がないこと以外に経験しなかった。
ただ、やっぱり雪への憧れみたいなものはずっとあった。中学3年の頃、たぶんテスト期間で徹夜して勉強していたような時期だったと思う、夜中の2時ころに雪が降っているのに気づいた。母と私は外に出て、その夜中の人がいないのをいいことに、はしゃぎながら3ミリも積もってないその雪をなんとかかき集めて小さな雪だるまを作った。これが私の最初の雪だるま作りの経験であった。
そんな神戸の海側からスウェーデンに移った私は、まだたくさんの雪を見るのに慣れていない。中学生のときのあの元気もなくなったので、雪を見るととにかくその不確かさから出かけたくなくなる。一旦出れば、晴れている冬の日よりも寒くないことがほとんどであるが、それでも降り積もる雪は私に畏怖を感じさせる。雪だるまを作るよりも家の中に入りたくなってしまった。これはある意味では雪に慣れたからなのだろうか――。まあ、この気分は雪によってだけもたらされたわけではなく、明るさにもよるだろう。最近は昼の二時には太陽が今日のシフトを終えて帰っていく。
まあそう家にこもっているとすることは限られてくる。私の場合は基本的にそれが読書になる。日本から持ってきた古本の山を掘削して、尾崎一雄の『まぼろしの記』を手に取った。志賀直哉、梶井基次郎、田畑修一郎、林芙美子、庄野潤三……とまでいえば私の好きな作家の傾向が見えてくるだろうが、このあたりを読んでいながら、尾崎一雄は長らく積読していた。大体新しい本や映画に触れる前、私にはなんとなく準備期間というものが必要なので、中々手広くすぐに読むことができない。少し前までは村上春樹のエッセイがマイブームだったのでそういうものはシリーズものを一気見するかのようにすらすら読み切れる。ただ、読んだことない作家の小説となると、きちんと時機を見計らって……と考えすぎてしまう節があり、積読が生まれてしまう。特に悪いとも思っていないので、私の読書生活は常に積読を抱えながらこれからも続いていくのだと思う。