変わることがすべて正しいのか(ある少年の告白 感想)
人はいつも自分以外の何かになりたいと思っている。
サラリーマンじゃない自分、引きこもりじゃない自分、コミュ症じゃない自分…
巷には、そうした人たちに向けた啓発本が大量に並べられている。よりよい自分になろうとするのは決して悪いことではない。
しかし、取り残された今の自分は一体何なのだろうか。よりよい理想のためにはあってはならない、消去すべきものなのだろうか。
「ある少年の告白」を見ました。
原題はBOY ERASEDなんですよね。この題字が現れて消えていくのがよかったですね。ここで痺れました…。つまり、本当の自分は消すべきなのか、ということなのだろうと思います。
あらすじとしては、牧師の家庭でまっすぐに育った一人息子が、大学で男性に襲われてからゲイであることを強く自覚したものの、「神の元に戻る」ために、更生施設に通う、というものです。
この映画が何より不気味なのは、皆、恐ろしく「普通」だということ。
主人公のジャレッドは男性に想いを寄せてしまう自分から「変わりたい」とはっきりと自分で口にします。前半は何度も「変わりたい」と彼自身が言うのです。施設のスタッフもごく普通のことを言ってきます。「君は悪くない」というメッセージを出して、耳障りのいい至極まっとうなことを言ってくるわけです。特に理不尽な暴力もない強制もありません(前半は)。
私はそもそもあらすじを知って見に来てますから、ちょっと肩すかしを食うんですよね。「あれ? 思ったより普通だぞ」と。
しかしジャレッドが「心の清算」とノートに書いては、クロスオーバーしていく過去の話が進むにつれ、施設での更生プログラムも不穏な気配を帯びてきます。この辺はちょっとサスペンス的な感じを受けました。
それにしてもこの「思ったより普通だぞ」という感覚が、なかなか衝撃的です。つまり、無意識のうちに、他人が決めた正しいと思う価値観を、私が自身があたかも、自分が正しい、普通だと思い込んでいるということです。
アメリカにこうした「LGBTQの更生施設」というものが現在でも普通にある(!)というのが日本では信じられませんが、日本では自己啓発という名で似たようなものは大量にあふれています。
全てがどうとはいいませんが、ブラック企業マイスターの私なんて、何度こういう合宿を受けたことでしょうか…。メンバーで輪になってですね、自分の何があれなのかみんなの前で言うやつとか。今までの自分はダメで、この研修で仲間と協力する大切さを知ったとかそういう…あれ映画のままじゃん…これ本当に自分はダメだと思ってたんですかね…今更ですけども…そんなダメな人間だったかしら私。たかだかその日に会った研修会社のスタッフに私の何が分かるんだって話ですよ。
主人公は「変わりたい」という純粋な思いで真面目にプログラムを進めていきますが、やがてそのための矛盾に気がついて更生施設を抜け出します。
このときのお母さんもいいですね。お母さんはやっぱり味方でいてくれるんですね…。ここは本当に救われました。
牧師のお父さんとはなかなか和解できません。表面的にはお互いに愛しているのは分かっているけれど、お互い遠慮してしまって思いをを突きつけられない。それが最後にあるのがとてもよかったなあ。
「孫が見られないということに失望している」というのは私のような一人で生きていく人間にはとても辛い言葉。それに対し、ジャレッドが「でも僕はゲイで父さんの息子だ。それは変わらない」と突きつけるのがとても胸をつかれました。ぼろぼろ泣きましたねこの辺…。私たちは誰だって、一番大切なひとにそのままの自分のことを認めて欲しいんですよね本当は。
変わりたいという純粋な願いに罪はないと思うけれど、その「変わりたい」という願望は本当に、心から自分が願っているものなのか――
テレビでも雑誌でもネットでも「こうしたらモテる」「このやり方が正しい」「これがインスタ映えする」「こうしたら褒められる」そういう情報があふれる時代の、そこから逃れたらまるで生きていけないような息苦しい社会の中で、でも自分はこれで生きていくんだという自分に対する「赦し」が何より生きる支えとなるものなのでしょう。
願わくば私も自らが「選択」できるように。
神様は自分の中にいるし、「自分を打ち砕くものではない」のだから。
それにしてもナイスキャストですね…。あのキッドマン様が派手なおかあちゃんにしか見えないですもんね…
あとこれを見に来た大きな理由が、熊さんラッセルクロウなんですけど、最高でした。EDの実在のお父さんとそっくりすぎて笑ってしまった…。熊さんの時のラッセルおとうちゃんの、老眼鏡から上目遣いするの最高じゃないですか??ワールド・オブ・ライズを思い出しますよ…
ということで熊ラッセルおとうちゃん好きには最高にたぎりますので、ぜひ。