雨巡りて(中)
「おばあちゃん、お客様がいらっしゃったわよ」
襖を開け祖母のいる和室へ入ると、お香の匂いが私たちを出迎えた。長い年月を経て部屋に染み付いたこの香りはどこか懐かしく嫌いじゃない。
祖母はいつものようにベッドにいた。
先ほど昼食を済ませたばかりだったので、ベッドの上部を少し上げて身を起こしたままにしていた。手元には薄紫のハンカチを握りしめている。
祖母の反応はいつもワンテンポ遅い。今日も声をかけてしばらくして、こちらを見た。
「こんにちは」
柔らかな表情を作っているものの、その中に戸惑いが見えた。きっと私が誰かわからずにいるのだろう。今日はハズレ、と私は心の中で落胆する。
背後に立つ忍田さんを振り返った。
「どうぞ」
そう促すと彼は頭を少し下げ中に入った。
「こんにちは、小夜子さん」
そんな彼を見て祖母は目を瞬かせた。
きっと、見知らぬ男性が入ってきたとしか思えないのだろう。
私の心がチクンと痛む……その前に。祖母は驚くほどの反応を見せた。
「まぁ、忍田さん! なぜここに」
え、と私の体が固まった。
祖母が瞬時に忍田さんを理解し、名前を発することができた。
そのことに愕然とした。
戸惑う私をよそに、忍田さんは落ち着いた動作で祖母のベッド傍らにある椅子に座りゆっくりと言葉を紡ぐ。
「突然来てしまいすみません。どうしてもお会いしたかったので」
祖母は口元に手を当てて、ゆっくりとかぶりを振る。
「いえ、いえ。そんな。とても嬉しいわ」
その仕草や動作は何故かとても可憐に見えるものであった。祖母が少女のように頬を紅潮させ、本当に喜びを感じている。
忘れ去られた孫はその現実を凝視し、一歩も動けないでいる。微かに働いた脳みそで考えられたことは「ここに居づらい」という何とも情けない感情であった。
「わ、私、お茶淹れてきますね」
そんな声は二人に届かなかったのだろう。お互いに手と手を取り合い感動の対面をしている。一種異様とも思えたこの状況を後ずさりに退室しつつも私は目を離すことができなかった。
(一体、何だっていうのよ)
コポポポと小気味良い音を立てて注がれるお茶を眺めながら、私は大きく溜息をついた。
血の繋がった家族を忘れているというのに、何年ぶりかに会う赤の他人の青年はバッチリ覚えている祖母に腹が立って仕方なかった。
しかも、病気のせいであり祖母が故意にしているわけじゃないから余計に腹が立つ。
無意識下で彼女は私たち家族を軽んじて見ていたのではないかと、そんなことを考えてしまう自分にも腹が立っていた。
(たまたまよ、たまたま。偶然、何かの記憶スイッチが入っただけで)
祖母が認知症になってから読んだ本で、そのようなことが書いてあった気もする。まだら認知症と言い、同じ日でも時間や血流の問題で調子がいい時と悪い時があるそうだ。
きっとそれなのだろう、と無理矢理結論づけて私はお茶とお茶請けを用意したお盆を持ち再び祖母の離れへと向かった。
こぼさないようにゆっくりと運ぶと、湯呑みの中でお茶が小々波のようにゆらゆらと揺れた。
祖母の和室の襖を開けるためお盆を一度下に置く。膝をつけ言葉をかけようとした時、ふと襖にかけた手が止まった。
それはきっと「魔が差した」というものだろう。
こっそりと中を覗いてみようと思ってしまった。
静かに摩擦を殺しながら襖を動かす。
すると細い縦線の隙間から、聞きなれない音が滑りだしてきた。
それは聞き間違えかと思ったがそうではなかった。まさしく、雨音だった。
息を飲む。
白昼夢を見ているようだった。
祖母と忍田さんが抱きしめ合っている。しかも祖母はしっかりと立っており、ベッドはどこにもない。
いや、ベッドどころか。
何もかもがそこにはない。
あるのは紫陽花咲き乱れる何処ぞの庭園と、そこに降りしきる霧雨。
濡れそぼる二人が雨音に包まれ身を寄せ合っていた。
そして祖母のいた場所にいつの間にか、見知らぬ女性が立っていた。私と同い年くらいのように見えたその人。
それは古いアルバムで何度か見たことがあった。
昔の祖母だ。淡い若草色のワンピースを着て、忍田さんの胸元で彼を見上げている。
忍田さんはそんな彼女の顎に手を添えると顔を近づけた。雨のカーテンの向こうで二人の影が重ねられる。
「………!」
言葉にならない驚きが、私の体の硬直を解かせた。
後ろにのけ反るように動いた体が、下に置いていた湯呑みに当たり周りに熱い飛沫を散らせた。
「あ!」
幸い湯呑みは私とは反対側の廊下へ倒れ、中身は向こう側へと流れた。慌てた私はついつい必要のない大声で向こう側の二人へと声をかける。
「ご、御免なさい! お茶をこぼしてしまって」
しかし何故か襖の向こうからは何も反応がなく、シンと静まりかえることに気づく。一体私は誰に声をかけているのか。先ほどの光景が蘇りぞくりとする。
湯呑みだけお盆に戻し、お茶をそのままにししばらく待つがやはり反応はない。
その奇妙な間に首をかしげ、恐る恐る襖を開ける。
するとそこにはもう、いつも通りの祖母の部屋があったのであった。けれど。
「あれ……忍田、さん?」
煙のように彼の姿は消えていた。いるのはベッドで横になっている祖母だけである。
「おばあちゃん、忍田さんは?」
キョロキョロと辺りを見渡すが、この狭い部屋の中で青年男性が身を隠せられるようなスペースなどどこにもない。
それよりも、さっきのあの光景はなんだったのか。夢か幻か白昼夢か。
答えを返さない祖母に私は改めて向きなおる。
「ねえ、おばあちゃんったら」
そうして私はやっと祖母が目を閉じていることに気がついた。
いつもなら寝てしまったのかと勘違いするほどに落ち着いた表情で目を閉じていた。
しかしついさっきまで、夢幻のような光景を見ていた私の脳裏にすぐに嫌な悪寒が走る。呼吸をしていない。
「おばあちゃん……? おばあちゃん!」
慌て駆け寄り触れた祖母の体は、雨に打たれていたかのようにひんやりとしていた。
続く