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あの日の潮風

目を閉じると広がる風景が私にはあったのです。
それは何とも懐かしく心地いい空間が広がる小さな島でありました。いつでも柔らかい風が島を包み、そこで暮らす私たちは風と共に生きていました。
漁業で生計を立てている島の人たちは、ほとんどが漁師あるいは魚肉加工食品会社のもとで働いていました。例にもれず私の両親も、父親は漁師で母親は工場勤務をしておりました。
子どもが私を含めて五人もいた二人の苦労は大変でしたでしょう。しかし下から二番目の私はそんな親や長兄たちの気苦労を知らずに、幼い弟と二人でよく防波堤近くで遊んでいたのでした。

「ふーちゃん、競争しようよ」
ある日弟がそう言いました。
保護輪なしの自転車にようやく乗れるようになった弟は、毎日自転車をこぎたくて仕方なかったのでしょう。そんな弟を私は可愛さ半分、面倒臭さ半分で答えました。
「えー、でも絶対マー君が負けちゃうよ」
なぜならタイヤの大きさが明らかに違うから、どちらが勝つかなんて一目瞭然でした。しかし生意気盛りの弟は頬を膨らませるばかりです。
「そんなのやってみなくちゃ分からないよ! ほらいくよ、よーい、ドン!」
「あ、マー君!」
走り出した小さな背中を追って、私もペダルをこぎ始めました。
すぐ横には海が広がる防波堤。弟がゴールとして目指す先はどうやら船着場のようでした。そこには柵もないので、大人には子どもだけで近づくなときつく言われている場所でした。
「マー君待って! そっちは危ないのよ」
しかしマー君は止まりません。言うよりも先回りして止めた方が良さそうだと判断した私は、遠慮なくスピードを上げました。
すると風が強くなり私の長い髪をたなびかせました。潮風が、二人を包みます。
そしてあっという間に弟の距離はなくなりました。悔しがる弟を追い抜くと、私は船着場で向かいくる弟を出迎えようと自転車ごと振り向こうとしました。それがいけなかったのでしょう。
タイヤが滑り、私は自転車ごと船着場から落ちてしまったのです。
「ふーちゃん!」
遠くで幼い弟の声が、私を呼びました。

なぜ今そんなことを思い出すのでしょう。
あの後私はすぐに気づいた島の人に助けられ、こっぴどく叱られる羽目になったのです。
でもそれよりも鮮明に記憶に焼きついたのは、落ちる瞬間の匂いと落ちた後の暗闇でした。
濃い潮の香りが、放り出された私を包みこむあの感覚。海に落ちて見た深い底の闇。いつも私たちを生かしてくれている島の裏部分を、あの時に知ってしまったかのような感覚がこびりついた私は、いつかこの島を出て行こうと考えたのでした。
今ではあの島とは遠い土地のベッドで、そのことを思い返しています。
けれどなぜでしょう。あの時とはまた違う表情を、あの島は見せてくれるのです。
今思い出されるのは、私を心配そうに呼ぶ幼い声。落ちた私を呆れながらも手を引いて一緒に帰ってくれた兄たち。出迎えてくれた両親の驚きの声と叱咤の声、そして抱きしめてくれた温もり。そんなものばかりです。そしてその思い出にいつもついてくるのは、仄かにある潮風なのでした。

──ふーちゃん。

弟の声が聞こえます。

──ふーちゃん、行こう。

弟は二年前に他界しました。

──皆も待っているから。

親も兄弟も今はいない。だから、私はもう……。

──大丈夫、怖くないよ。……怖くない。

………。
………。

安らかな眠りのように老女は息を引き取った。
昔の匂いがあるあの場所へ、彼女は旅立っていった。

#小説

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