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笑う猫は夕焼け色

それはリビングでテレビのバラエティ番組を観ているときに聞こえた。
たしか番組では、動物ハプニング映像が流れていた。雪の中ではしゃぐ犬が、足元を滑らせて撮影カメラに激突するシーン。
「ぐふふっ」
確かにそう聞こえたのだ。
親父のような、変な笑い声が。
(え?)
私は思わずまわりをキョロキョロ見渡した。
キッチンではお母さんが夕食後の後片付けをしているし、お父さんはまだ会社から帰ってきていない。リビングにいるのは私と飼い猫のキースだけ。
(気のせい……かな)
そう思いまたテレビを観たら。
「ぐふふっ」
(また聞こえた!?)
私がまたまわりを見渡したので、それに気づいたお母さんがキッチンから声をかけてきた。
「どうしたの、雪菜」
「お母さん、笑った?」
「え、笑ってないわよ」
テレビの音だったんじゃないの、とお母さんは言ったが番組をきちんと観ていた私にはそうは思えなかった。
しかし結局原因はうやむやのままで、私もそこまで気にせずにまたテレビを観だした。
そんなことがあったのが、中学三年の秋。そして。

「ぐふふ、今日もいい天気だねぇ」
そう言って目を細める飼い猫、キースに私はため息をついた。
「いいわよね、猫はのんきでさ」
「のんきに暮らすことがオイラたちの仕事なのさ」
「何それ羨ましすぎる」
キースは「うにゃあん」とわざとらしく猫語で答えた。
我が家の飼い猫、キースは人語を話せる猫であった。
しかもなぜかその言葉は私にしか聞こえていないようなのだ。
十歳であるキースは人間にすると六十歳近くのおじさんで、いつも体たらくな態度で私をからかってくる。
赤茶色の縞模様を毛づくろいしながら今日も。
「雪菜はほれ、まだ結婚しないのか」
「私まだ高校生なんですけど」
「じゃああれだ、彼氏っつーやつは」
「セクハラで訴えるぞ」
これが人間の姿ならできたが、いかんせん見た目には可愛すぎるほどに可愛い猫である。
結局私は悪態に負けつつも、仕方なくキースの喉を撫でその可愛らしい喉鳴りを聞いていた。
「ぐふふ、気持ちいい」
ああ、この変な笑い方さえなければ。

キースは私が一人暮らしをし始めてからは実家でのんびりと暮らしていた。
たまに帰ると変わらぬ口調で語りかけてくる。
「雪菜がいないと愚痴も言えんからつまらんのう」
「猫に何の愚痴があるのよ」
キースは以前よりもゆっくりと尻尾をぱたぱたさせながら、ふぅとわざとらしく息を吐いた。
「生きておればどんな生き物にも悩みはある。父さんの体臭がきつくなったことや、母さんの料理の味付けが手抜きになったとか」
「取るに足らないことだなぁ」
「ふん、ちょっと世間の荒波にもまれたくらいで偉そうに言うわ」
キースは顔をそっぽに向けてしまったが、そのまま顔を私の座っている膝にのせた。
久しぶりに感じる動物の温もりはやはりどこか心地いい。
私はスマホでキースのくつろぐ姿を撮った。
「猫にも肖像権はあるぞ」
「そうですか」
「ぐふふ、そうなんだよ」
難しい言葉を得意そうに使うキースを眺めていると、手元のスマホがメッセージの着信を告げた。
私はそれを見て、電源のスイッチを消した。

その次にキースと会ったのは、大きな荷物を抱えて実家に来た時だった。
「おかえり、雪菜」
キースは突然帰ってきた私を待っていたかのようにのんびりと歓迎した。
「あんたも相変わらず親父だねぇ」
「ぐふふ、嬉しいね。もうおじいちゃんなのに」
「そっか。もうそんな年齢か」
「そうそう、敬いたまえ。ぐふふ」
キースの毛並みはまるで夕焼けのようだと思いながら撫でる。
太陽が隠れ始め、さあお家に帰ろう、温かい料理がお家で待っているよ、とでも言いたげな色だ。そんなキースを撫でていると緊張していたものもするりと溶けていく。
「雪菜、冷たいのう」
落ちた雫に、キースは迷惑そうに言った。

キースはうちの飼い猫だ。
キースは笑う猫。
キースはぐふふと笑うんだ。
辛抱たまらん、といった風に吹き出して笑うその声。
でもその声は私にしか聞こえない。

私にしか聞こえない。

・  ・  ・  ・  ・

どうして今になってそんなことを思い出しているのだろう。
今はもう聞こえないキースの笑い声を忘れないように、私の脳が勝手に思い出を再生していく。
動かなくなったキースは近所の動物霊園に行くことになった。
「さようなら、キース」
キースの墓の前で私はぽつりともらす。
キースは本当に笑う猫だったのかな。
あの声は私にしか聞こえないんじゃなくて、全部私の妄想だったんじゃないかな。
そんな考えもちらりと頭をよぎるけど、真相はもうわからない。
それにそんな風に考えてしまったら、キースとの思い出まで消えてしまいそうで私は頭をふった。
すると傍にいたお母さんが思い出したように話し出した。
「そういえばね、昔雪菜が突然リビングでまわりを見て『お母さん笑った?』って言ったじゃない」
私がキースの声を初めて聞いたあの日のことだとすぐにわかった。
「実はね、あの時私も少しだけ聞こえたの。変な笑い声。あの時は怖くて気のせい、って思ったけど……もしかしてキースだったのかもね」
私はお母さんの方を振り返ることができなかった。変な顔を見られたくなくて。

キース。キース。あなたの声が聞きたいよ。
ぐふふ、て笑うあの変な声が聞きたいよ。

今ではもう聞こえないあの声を、私はいつでもリフレインする。

大丈夫。君の帰る場所はここにあるんだよと赤茶色の猫が笑っている。
ぐふふと笑う変な声が、悲しみにそっと寄り添っていた。


#小説

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