痛み
「あんた見てるとさ、ムカつくんだよね」
玲花はそう言って私の前から去ろうとした。
伏し目がちにした目元に、長い睫毛の影が出来たものだから、私は呑気にも「きれいだなぁ」なんて思っていた。
すぐに向けられた背中に、その景色さえも隠されてしまったけれど。
「いっつも笑ってて。バカみたい」
最後にそう言って、玲花は私の傍から離れていった。
・ ・ ・ ・ ・
いつも明るくていい子だね。
優しくて君がいると雰囲気が温かくなるよ。
そう言われて私は育ってきた。
でも違う。ようやっと私は気づいた。
そう言われるように私は立ち振る舞い、過ごしていたのだ。無意識に無自覚的にそうしてきたものだから、いつかそれが身となり当たり前になっていた。
人には優しく。いつも心に太陽を。
しかし私は知らなかったのだ。
陽のある場所には必ず影が出来ることを。
陽があるだけの世界なんて、天国にだってないのかもしれないということを。
「玲花、これ使って」
「え」
二時限目後の休憩時間。
私はコンパスを持って玲花の席へと近づいた。青いコンパスを入れたケースを玲花へ向けて手渡すと、彼女は座ったまま眉をしかめてこちらを見た。
「なんで?」
「なんでって、忘れてたって言ってたじゃない。次の授業で使うでしょ?」
するとますます玲花は眉をしかめた。
「あんたも使うでしょ」
「あ、私は大丈夫よ。もう一つ持ってるから」
「もう一つ……? コンパスをなんで二個も」
「予備よ。備えあれば憂いなしって」
心配性の私は何でも二個ずつ持つことが多かった。コンパスもそのひとつ。
それの何がいけなかったのだろう。
玲花は席をガタリと立つと、先ほどの台詞を言い放ったのだ。
「あんた見てるとさ、ムカつくんだよね」
・ ・ ・ ・ ・
玲花とのやりとりを反芻していても、何が正解だったのか私にはわからなかった。
あれきり玲花とは話をしていない。
小学校からの友達だったのに、こんなにもあっさりと関係が終わってしまうなんて私は思いもしていなかった。
自室であの時のコンパスをデスクに置き、ぼおっと眺めていることしかできない。
───いっつも笑ってて。バカみたい。
「……笑ってちゃ……ダメなの?」
笑う門には福来る、て昔の人は言ってたんでしょう?
疑問をつぶやいても、答えてくれる声はあるはずもない。空に飛んで消えた声は、誰にも届かない。
ふとコンパスに手を伸ばすと、思いのほか尖っていた針の切っ先に指を痛めた。
「痛っ……」
慌てて手を離すと、体の内側から逃げるように小さな赤い液体が人差し指から溢れてきた。口に含み、傷みをごまかす。
「痛い……なぁ」
差しのばした指先は、鋭い針で傷をつける。
どれだけこちらが柔らかい皮膚であっても、容赦なく貫く針先。
───あんた見てるとさ、ムカつくんだよね。
でも何故だろう。
そう言った玲花も何かに傷ついているかのように、耐えているような表情だった。
まるで真綿で締めつけられているかのように、息苦しそうな表情で、私にそう言ったのだ。
「……ムカつくんだよね」
ポツリと私の口元からこぼれ落ちた言葉。
それは自身に言いたかったのか、玲花に向けたものなのか、わからない。
ただジクジクと痛む指先が、いつまでも気になって私を苦しめた。