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じゅんじゅんの人生振り返り(社会人編~2018年)

前回、僕の人生振り返り(小学生~大学生編)をお送りしまして、今回はその続き、社会人編をお送りします!僕の人生が好転する前夜、2018年までを振り返りたいと思います。

1.保育所担当時代

大学を卒業して地元の市役所に就職しまして、最初に配属されたのは、保育所を管轄する部署でした。僕は、保育所の入所に関する業務の担当になりました。主な仕事内容としては、窓口で新規入所の案内や受付をし、各保育所と入所可能かどうかの調整をし、保護者の方に結果の連絡をする、といったことや、新規入所者のデータ入力、保育料の計算・通知、といった辺りが日々の業務でした。それに加えて、秋から翌年の春にかけて、新年度の4月入所に関する業務があったり、住民税の金額が確定した6月頃に保育料の一斉見直し業務があったり、という感じです(ちなみに保育料は前年の所得税で決まるのですが、なぜ住民税?というのは長くなるのでここでは説明はいたしません)。

保育所といえば、待機児童の問題や保活という言葉があるように、なかなか希望通りに入ることができないんですよね。今の状況はよく分からないのですが、僕が担当していた頃(2008年、2009年頃)の地元の状況は、4月入所だと選ばなければどこかには入れるのですが、年度途中の入所だとなかなか空きがないという状況で、日々窓口に来られる親御さんにお断りの説明をすることがほとんどで、空きがあればラッキーという感じでした。お断りするわけですから、当然すんなり話が終わらないことも多々ありまして、希望に添えないことの繰り返しなので、なんだかなあと思っていました。

保育所の担当をしていて一番つらかったのは、残業がめちゃめちゃ多かった、という点でした。時期ごとに書きますと、7~9月はわりと落ち着いていて月20~30時間くらい、10月から4月入所の業務が増えてきて、10月~1月が月50~60時間くらい、2月からめっちゃ忙しくなって、2月80時間、3月100時間、4月120時間、といった感じで、5月6月は保育料の見直しとかもあり、月50~60時間くらい、という感じでした。月120時間残業したときは、基本給よりも残業代のほうが多かったです。

入所業務の担当者は上司も含めて4人だったのですが、窓口業務とそれに付随する業務で日中の時間はほぼ過ぎて、残業時間になってから腰をすえて事務作業に取り組む、という感じだったので、2月~4月の時期は、平日は21時くらいまで残業して、土日もどちらかは出勤していました。遊びに行ったりとかはほとんど無かったです。

気づいてらっしゃるかもしれませんが、また寝不足の日々になりました。でも、短い睡眠時間でも大丈夫と謡っているビタミン剤を見つけまして、毎日飲んでいたせいか、身体はわりと元気でした。残業が多すぎて産業医の面接も受けたのですが、何もなく終わりました(笑)。仕事内容はわりと自分に合っていたようで、1年目は先輩に質問しながらの仕事でしたが、2年目のときは先輩2人が異動して新しい人に教える立場になったのもあって、頼りにされる存在になりました。周りの人もみんないい人だったのもあって、メンタル的にも元気だったと思います。それで、3年目はこれまでを踏まえていろいろ改善していこう!と思っていたところ、部署を異動することになってしまいました。

2.生活保護担当時代(1~4年目)

異動先の部署は、生活保護を担当する部署で、いわゆるケースワーカーと呼ばれる仕事を担当することになりました。仕事内容は、生活保護を受給している方たちが自立して生活できるように支援する仕事です。主な具体的なものを挙げますと、生活保護費の計算と支給、生活状況や収入状況の把握(定期的な自宅訪問や収入の申告などから)、課題や困りごとの解決支援(自宅訪問や関係機関からの連絡、受給者の方からの相談などがきっかけになります)、働ける状況の方に就職を促して生活保護からの脱却を支援する、などです。

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この仕事は、コミュニケーション力と臨機応変に対応できる力が求められるため、どちらも欠けている自分には、かなり向いていない仕事でした。1年目のときは、ただでさえつらいのに、どうしたらいいか分からなくて上司に聞きに行くと上司に怒られる、という状況で、「仕事辞めたいなあ」と思っていました。2年目になると、少し余裕が出てきたと思ったところに、担当していたとある方に過大な要求をされ続けて疲弊してしまい、また病気が悪化し始めました。3年目になってその方の担当は外れたのですが、なんやかんや負担が増えて薬を増減しながらやり過ごしていて、4年目のときに、「もう無理だ」となってしまいました。その年は、仕事の負担を軽くしてもらい、なんとか乗り切りました。

2年目のときに、隣の席の人に、自分は病気があって通院しているということを打ち明けました。そしたら、その話が広まってしまって、「あいつは精神だからな」(=メンタルの病気を持っている)ということを陰で言われるようになりました。表面上は仲良くしてくれていたのですが、内心は嫌われていたのだと思います。

つらい話ばかりになりましたが、同僚と楽しい経験ができたとか、仲の良い同期と毎日ランチしてた、といったこともありました。あとは、社会保障や福祉の制度に関しての知識が身についたという点では、この仕事をやってよかったなとも思います。

学生時代に目いっぱい遊んだという感覚がないまま社会人になってしまったというのが、心に引っかかっていた面もあったのですが、2年目になって少し時間的に余裕ができたのもあって、休日にいろいろライブや舞台などを観に出かけていました。そのことで、目いっぱい遊ぶという経験が自分の中でできたと思えたので、それは良かったなあと思っています。

3.生活保護担当時代(5年目~1回目の休職)

5年目になり、同じ生活保護担当の部署の中で、事務を担当する係に移りました。主な仕事内容は、生活保護の医療費や介護費の支給に関する事務や、チェック業務を委託する業者さんとのやり取り、生活保護に関する国や県の補助金に関する事務などで、時期的なものだと、県の監査の資料作成や、部署の予算資料の作成、といったものがありました。やはり事務は自分に合っていたようで、仕事自体は全く苦になりませんでした。仕事に慣れてからは、時間内に終わるよう計画を立てて仕事をしていたのもあって、毎日6時前には退社していました。

ところが、今度は上司のパワハラに遭ってしまいました。その上司は、他の人には優しく接するのですが、自分にだけ厳しく接するという具合でした。僕の前にも同じような対応をされていた人が休職していたりして、その上司が何か信念があってそういう接し方をしていたというよりは、もっと別の何かが上司の中にあったのではないかとも、僕は感じています。実際のところは分かりませんが。

そんな感じだったので、4月に異動して、夏頃から病気がだんだん悪化し始めて、10月に仕事が出来ない状態になってしまい、休職することになってしまいました。当初、数ヶ月で復帰できるかなと思っていたのですが、なかなか良くならず、結局復職するまでに2年半休職してしまいました。

4.復職~2回目の休職

2年半休職してようやく復職できる状態になり、同じ部署に復職しました。頑張って仕事しよう!と意気込んでいたのですが、今度は、あまり仕事を与えないというパワハラに遭ってしまいました。そのため、また体調が悪くなってしまい、4月に復職して、11月にはまた休職してしまいました。

復職した際にロッカーの私物が勝手に処分されていたり、上司や同僚から軽い嫌がらせのようなことをされたりしたことから(表面上は平穏に接する感じでした)、2回目の休職になって、職場のことを思い出すだけで体調が不安定になる日々を過ごしていました。1年くらいかけてだんだん落ち着いてきた頃に、職場の人と鉢合わせて再び体調が悪化したりもしました。両親にも不満をぶつけたり、家のドアを蹴って壊してしまうことも何度かありました。休職直後にあまりにつらかったので、県の自殺予防電話に電話をかけたこともありまして、そのとき初めて人から「今まで頑張ってきたんだね」と言ってもらって、涙が出てきたのを覚えています。

これまでの人生で、睡眠不足と戦う時期も多かったのですが、休職中も睡眠に悩まされていました。1回目の休職時は、明け方まで寝られなくてお昼くらいに起きる生活が治らない、2回目の休職時は、夜は寝付けるのですが、1日10~12時間くらい寝ていて、やはりお昼近くに起きていました。なんとか解決したいと思い、病院の先生に紹介して頂き、大学病院の睡眠外来を受診する事にしたのですが、予約が5ヶ月後しか取れなくて、受診できたのは2019年2月でした。

5.まとめ

市役所勤務時代はしんどかったなあというのが、振り返っての感想です。記事には書ききれないこともたくさんありまして、楽しいこともあったり、作曲活動をしていたり、恋をしたこともありました。でも、正直言ってもう戻りたくないなあというのが本音で、いまだに思い出すとネガティブな感情になることもあります。

そんな中でも、Twitterをやったり、本を読んだり、夢に向かって作曲の勉強をしたり、自分なりに前を向いて頑張ろうという心を持っていたので、そこは褒めてあげたいなって思います。

次回は、人生振り返りの最終回、人生が好転した2019年編をお送りします!

読んでくださり、ありがとうございます!!

Photo by Patrick Perkins on Unsplash


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