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離婚しなければならない事態に遭遇した時

人生、どうにもならないことに遭遇することは、誰しも一度は経験すると思います。

そのどうにもならないことは、自分の力量不足だったり、そもそも自分の力が及ばない範囲であったりすることがあるでしょう。

どう努力しても、どんなに時間をかけても、どうにもならないことは一向にどうにもならない。

「もう辞めてしまおうか」と思った途端に、

「自分の頑張りが足りないだけなのかもしれない」と思い直したり、悔しさが込み上げてくることもあるかもしれません。

そんな状況を私も過去に一度経験したことがあります。

そしてそんな状況下で出した答えは、

「どうにもならないことは、究極的にはどうもしなくてよいこと」

というものでした。

「世の中にはどうにもならないことが存在している」という明白な事を"受け入れる"ということこそが、時には必要だと感じたのです。

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私は年上の元夫との結婚生活で、あまりにも夫婦での会話や価値観が噛み合わず、「世の中にはこんなにも通じ合えない相手が存在するのか」と、度肝を抜かれる程に驚いたことがあります。(反対に元夫もそう感じていたでしょう)

次第に私自身は、元夫よりも16年も人生経験が少ないという事実と元来の自己肯定感の低さも併せ、自分の方に完全な非があると思い込んでいきました。

そして私にとって元夫の存在が、夫→親→上司→恐怖の対象といった形に変化していったのです。

ここまでくると夫婦という対等な関係が存続不可能なのは明白です。

一方が相手に恐怖心を感じている時点で、それは家庭でも夫婦でもなんでもありません。

しかし私は、

「まだどうにかできるはず」と諦め悪くその場にしがみ付いていました。

その後結局は離婚に至りましたが、「世の中にはどうにもならないことが存在している」ということをその時はまだ実感できずにいました。

しかし離婚して1年経過した頃、

・「別れた夫と、もし共存する道があったとしたら、私はどんな努力ができただろうか」

・「当時の私には、何が足りなかったのだろうか」

という問いを自身に投げかけ時、驚くことに全く答えが出なかったのです。

強いて言えば、「なぜ夫婦を存続させるということに当時の私は執着してしまったのか、それこそが一番の問題点だったのではないか」という考えが浮かぶ始末。(反省の色なし)

それでも諦めずに長らく考え続けている問題ですが、やはりいまだに明確な答えが見つからないのです。

よって「いまだに見つからない」という事実の中から答えを見つけ出すことにしてみました。

そうして見つかった答えは、

「世の中にはどうにもならいないことが存在している」

ということを理解し、受け入れるということが時には必要だということです。

無論、自分1人の問題は大抵、マインドや言動の改善で解決することが可能ですが、他者が関わってくるとそう簡単にはいきません。

他者の意識を覗くことも変えることもできないですからね。

しかし社会では多くの人と関わり生きていかねばなりません。

その中で「どうにもならないこと」が必ず存在していることを私は学ぶ必要があったのかもしれません。

例えば、実の弟が最愛の女性と結婚した。2人は仲が良く弟はとても幸せそうだ。しかし私自身は義妹との折り合いが悪い。些細な嫌がらせも受けている。相性が悪いようだ。努力はしたが解決しない。

そうなってくると、弟の幸せをを優先して適度な距離を取る選択肢が有効なように思う。弟の最愛の人は自分が調達できるわけではない。弟が幸せなことに自分自身も幸せを感じ、見守るという選択をすることが今の自分にできることだ。
(引用:『妄想上の弟が結婚した嘘話』)

どうにもならないことは、究極的には「どうもしなくてよいこと」ではないでしょうか。

そういった事実を受け止め、自分が今できる最善の言動だけ考える。

上記の例えで言えば、「見守る」「弟の幸せにだけ焦点を当てる」ということが可能です。
時に自分が介入できず、「見守る」という行為は非常にもどかしく忍耐が必要だったりします。

ですが、どうにか自分の力で物事を動かしたいという気持ちを抑え、
どうにもしなくてもよい瞬間が時にはあるのです。

義理の妹との関係は、もしかしたら自分側に大きな原因があるかもしれないし、時間の経過で勝手に解決していくような些細なものである可能性さえあります。

しかし今優先すべきことは、原因を探り行動するよりも、新婚夫婦の関係に水を差さず、祝福することだけなのです。

両親、友人、同僚同士の不仲でも同じことが言えるように思います。

本人たちが自分の意思で解決していく必要があるのものに、勝手に責任感を感じたり、ストレスを溜めてしまうことはスムーズではありません。

他に目を向けるべき問題を見逃してしまうかもしれません。

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「どうにもならないこと」に遭遇した時、

「自分がどこまでするべきか」に焦点を当ててみると、案外その"どうでにもならないこと"は、どうもしなくてよいことだったり、他に見つめるべきことがあることに気が付くかもしれません。

一件、自分1人の問題だけに見えることも実は陰で様々な事情や人が関わっていることがあります。

毎晩美味しい食事が家庭に並ぶのは、スーパーで美味しい食材を調達し、丹精込めて料理をしたから"だけ"ではありません。

見えないところで、生産者や運送業者の方々の力が働いています。

良くも悪くも自分の力だけでは生きられないし、1人で生きていると勘違いしてもいけません。

反対に、「自分の努力だけでどうにかなると思い詰めてはいけないし、自分の力で相手を変えられるとも思い込んではいけない。」

それが社会の一員として生きていくことだと感じます。

どうあがいてもどうにもならない出来事に対して、執着しすぎたりストレスやジレンマを感じるよりかは、

「自分1人が社会や世の中を動かしているのではない」と自覚し、少し距離を置いてからもう一度その問題を他の角度から向き合ってみることの方が効果的ではないでしょうか。

「その問題は本当に自分がどうにかしなければならない問題なのか。」

時間の経過を待つことで元来自分が向き合うべき問題ではなかったと気が付くことがあるかもしれない。

だって世の中は大抵、どうにでもなる問題で溢れているのだから。







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