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投票に行くことを少し軽く考えてみる

第50回衆議院議員総選挙と最高裁判所裁判官国民審査の期日前投票に行ってきた。ここしばらくの選挙においては、私が投票した立候補者が当選することのほうが少ない(市議会議員選挙など議席数が多い場合には当選することがあるくらいだ)。そのような結果になると落ち込むし、私一人の投票行動では何も変わらないのだと確認させられてしまう。

でも、それで「もう選挙なんか行かない」と思って投票を止めてしまっては、自分が投票したいと思わない立候補者の有利性が上がるばかりではないか。そして自分が投票したいと思う立候補者の得票数が1票減ってしまうではないか。たかが1票ではあるが、その1票の差で当落が決まった選挙もあった。2022年に行われた東京都杉並区長選挙でも、約190票の差で岸本聡子氏の当選が決まったではないか。

選挙においては、当選することだけが立候補者の目指すところではある。得票数が僅差だったからといって何か救援策があるわけではない。それは大前提として、しかし、ちょっとでも多くの票が獲得できたほうがいいではないか、と票を入れる側としては思うのだ。落選したが、自分に投票した有権者がこれだけいるのだと立候補者に知ってほしい。それは私の1票が無駄になったとは思いたくないからだという、勝手な理由であることはわかっている。

初めにも書いたが、私の投票行為が報われることは少ない。でも、私がもらえている権利は有効に使いたい。なので私は「私が入れたくない人には票を入れない」意志表示として、入れたくない人以外を選んで投票することにしている。

「投票したい人がいない」という声はよく聞くし、同感だと思うこともある。その場合でも「投票したくない人」はいるかもしれない。その人に入らないならばそれでいい、くらいに私は考えている。もちろん政策などは調べて、自分が納得できない人には投票しない。しかし、それで誰もいなくなった場合は、どうにか自分が妥協できる政策を提示している人を選ぶことにしている。

こう書くと、政治に詳しい方に怒られてしまいそうである。だが、このくらい楽に考えてもいいと思うのだ。選挙権は最初から全ての人にあったわけではない。太平洋戦争後の1946年になるまで、女性に参政権はなかった。多くの女性達の活動があって、やっと手にできた権利なのだ。だから大事な権利だとも私は言いたいのではあるが、単純に、持っているものは使いたいではないか。使わないのはもったいないと思うのだ。

最初はよくわかってなくてもいいと思う。この人の言ってることが自分の思っていることと近い気がする、という人に投票したらいいし、この人の言ってることはどうも違う気がする、という人には投票しなければいい。でもせっかくなら、投票しないと決める前に、どこか一部分でもいいことを言っているのでは、と思った人に投票してみてもいいのではないか。その政策が気になったらもっと調べればいい。調べていくうちに自分の考えも定まってくるかもしれない。よく調べてみたら自分の考えとは違うということもあるかもしれない。それがわかれば次からは違う人を選べばいい。興味を持つためのきっかけになったらいい、くらいの軽さでまずは投票してみてもいいと思うのだ。

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