有言不実行
上記のように、昨日の記事で書いた。
現在、21時27分である。どれだけで書き終えられるかまだわからないが、22時台になるのではないかと思う。22時台の投稿は「余裕」だろうか。判断が難しいところである。23時台よりはいいような気がするが、余裕と言うからには、もっと早い時間が想像されるのではないか。
今日も隙間時間はあった。その時に、少しでも下書きしておくなりしておけば、余裕の投稿ができたかもしれないのだ。それをしなかった。「明日こそは余裕の投稿をしよう」と自分で言っておいてである。これは有言不実行だ。言うだけ言って、やらない。一番駄目な感じではないか。
私はこのnote上で、もう一つの有言不実行を実行してしまっている。それはこれだ。
「1日10ページは本を読む」である。読んでいない。全くと言ってもいいくらい、読んでいない。1日1冊本を読む方の記事をお見かけしたことがあるが、そのような方がいる一方、1日10ページも本を読めない人間がここにいるのだ。前者と後者は本当に、同じ人間という種なのだろうか。
この大きな差は、実行力の差であろう。生まれ持った能力も多少関係しているとは思うが、「やる」という意気込み、それが一番大きく影響しているのではないか。つまり後者(私)には「やる」という気持ち、それがない。
なぜ、やらないのか? それは、やらなくても何の問題もない(ように見える)からである。本を読まなくても、究極の話、死なない。しかし、本を読まないことに何の問題もないかというと、違う。本を読むことで得られることは多いはずだ。語彙や知識が増える、想像力が増す、思考が深まる、などである。本を読まないことで、それらを得る機会を失っている。
何より私は、小説を書く人間であるはずなのだ。それなのに本を読まないというのは、魚の種類や調理法を知らないのに魚屋を開いているようなものであろう。そんな魚屋の魚を誰が買おうというのか。
そして、「やる」と公言してしまったことをやらない態度は、他者から見た印象も悪くするだろう。だが、他者の目よりも気にしなければならないのは、自分の目だ。自分で「やる」と決めたことをやらないのは、自分への裏切りである。自分だから別にいい、という考え方はよろしくない。他者に対しては行わないような事を、なぜ自分にならできるのか。それは自分のことをなおざりにしている。自分に裏切られた自分は、ひそかに傷付いているかもしれない。
本を読むことに関しては、ここで改めて宣言はしない。「やる」と言える自信をなくしているためだ。なぜ読めないのか、少し考えてみる必要があると思う。とはいえ、できない理由を考えている時間で、少しでもやってみればいいのだとも思う。この辺りは自分の気持ち次第だ。
こんなことになるなら、言わなきゃよかったのに、という思いもあるにはある。だが、無理目であっても有言してしまうほうがいいのだと私は考える。何より、思っているだけではぼんやりとしている物事が、言葉にすることではっきりとする。文字にするとよりわかりやすくなる。そして他者にも伝わるようになる。他者の知るところとなると、強制力も働いてくる。また、他者からの協力が得られる場合もあるかもしれない。自分一人ではくじけそうになっても、他者の励ましがあれば乗り越えられることもある。
有言していこう。実行に関しては「頑張る」としか言えないけれど。