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喋り過ぎた、かもしれない

「喋り過ぎた、かもしれない」
人と会ったあとは、いつもこう反省する。

多分、自意識過剰だと思う。相手はそこまで気にしていないと思う。でも、私の話ばかりしてしまったのではないか?とか、相手にとって面白くない話をしてしまったのではないか?とか、思い返すと反省点が次々出てくる。

なぜそんなに饒舌になってしまったかというと、話せる雰囲気を相手が作ってくれていたからで、話していて楽しかったからだ。だから、「ああ楽しかった」とまず思い、「楽しい空気を作ってくれる人と一緒で良かった」と感謝すればいいのだ。良い思い出のほうを積極的に大事にすればいい。

「喋り過ぎてたら注意してね!」と頼むこともできるかもしれないが、「喋り過ぎだよ」と面と向かって言える人も少ないだろう(もしちゃんと指摘してくれる人がいたとしたら、有り難く思ったほうがいい)。

ここはやはり、自分で気を付けるのが一番だと思う。とはいえ「気を付けなきゃ」と意識し過ぎてもうまくいかないことがある。コミュニケーションに障害があると自分で思っている人(以下、コミュ障)は、そういうふうにややこしい。ややこしいからコミュ障となってしまうのであるが。

私がコミュ障として紆余曲折してきて思うのは、気を使うのならば、自分が話すことよりも「相手の話を聞くこと」である。ここで「聞いてばかりいると自分が話せない」と思う人もいるかもしれない。いや、ここでは相手を信じることが大事だと思う。会話とは、2人以上で行うゲームのようなものだ。誰か1人だけがでしゃばると、ゲームは成り立たない。相手もゲームを楽しみたいはずで、だからゲームが盛り上げるように協力してくれるはず、くらいに思っておくといいのではないか。

あと、コミュ障とも仲良くしてくれる人は、コミュニケーション強者(以下、コミュ強)であることが多い。コミュ障がじたばたするよりも、コミュ強のスキルに甘えてしまったほうがいい場合もある。

悩み過ぎて落ち込むよりも、楽しかったことに注目して、良い気分でいたほうが精神衛生上ずっといい。それに、相手も、話した相手が喜んでいるほうがいい、と思うのではないだろうか。


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大場さやか
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