一人旅をして気づいた【幸せの形】とは
幸せって何だろう。どんな時に私は幸せを感じるのだろう。自分って幸せなのかな?不幸なのかな?あの人は幸せなのかな?どうしたら幸せにできるのかな?
私は幸せになりたい。
私は昔から「幸せとは何か」をよく考える。幸せの形や概念は、人それぞれ違うということはわかっているし、幸せの感じ方も人によって全然違うということは理解している。でも自分にとっての幸せって何だろう?何が自分にとっての幸せで、どうしたら自分は幸せになれるんだろう。
私は両親に愛されて育って、素晴らしい友達に恵まれて、大学院まで進学することができて、大きな病気もすることなく、健康体で27歳まで生きることができた。これはとても感謝しなければいけないことだし、もちろん幸せなことだ。けれど、やはり自分の人生、苦難だってたくさんあるし、どうして自分だけこんなしんどい思いをしなければいけないのだろう?って思う時は、そりゃたくさんある。幼少期はいじめられてばかりで、今でもすぐに自律神経が乱れるし、人一番メンタルが弱いところとかも人生に支障がきたしてるし、そもそもうまくいかないことのが多い毎日。そして隣の芝生は青く見えるもので、やはり他人の人生を羨むことだってあるし、比較することもある。他人の人生なんて、自分はその人の人生の1%も理解していないのに、お金をたくさん稼いでいて幸せなんだろうな、いろんな国に旅行に行けて幸せなんだろうな、仕事が成功していて幸せなんだろうな、、、「あの人は幸せに違いない」そう思ってしまうことだってあるのだ。ちなみにこんなことをいう自分は、贅沢であることは理解している。
自分は十分幸せであると理解しつつも、そうやって他人と自分を比較すると「自分は果たして本当に幸せなのか」とか「自分を幸せにするためにはどうしたらいいのか」とか、深く色々考えてしまう。
もちろん毎日元気に生きていることに感謝しているし、これは十分に幸せなことなのだけど…何が私を幸せにしてくれるのか?その「何」を私はどうしても言葉にしたい。私は何に対して「幸せ」を感じるのだろうか。
私は物欲がすごいある人で、自分が欲しいと思ったものはなんでも購入してしまう。しかし欲しいものを買えた時は一時的に幸せだけど、その幸せはすぐに消えてしまい、次はもっと違うもの、もっと高価なものが欲しくなる。収入や仕事だってそう。一度仕事が成功して収入も上がっても、その時は一時期的には幸せではありながらも、その幸せにはすぐ慣れてしまい、次はさらなる成功を、そしてさらに高い収入を求める。上には上がいるから。上を目指すの事はいいことではあるけど、どんどん欲が深くなる。そして人付き合いだってそう。人に優しくしてもらったり、助けてもらったりすると、その時は幸せだし感謝を覚える。でも何度もされていくうちに、その優しさに対して慣れてしまう人がいて、幸せの感じ方が薄れていく。中にはその優しさを利用する人だっている。私はよく、自分の優しさを利用されるからこれは確信だ。人間関係の中でも、親しき中にも礼儀あり、を忘れてしまう人はたくさんいるのだ。でも人間は欲深い生き物だし、こういうことが起きてしまうのは仕方がないことだと私は思っている。小さな幸せがだんだん当たり前なことになっていき、慣れていくとそれを幸せと感じなくなり、人はさらに欲を出していく。そしてさらに幸せを求めていく。でもそんなさらなる幸せって簡単に手に入らないから、自分を不幸だと思い込んでしまう、、、そうなんじゃないかな。
今の世の中、様々な情報が行き交い、人との繋がり方も簡単になり、そして多くの新しいモノで溢れている。SNSが発達し、他人の人生を簡単に覗き込める上、自分の人生を偽ることだってできる世の中になった。そういう世の中になり、人ってちょっと幸せを感じにくくなっているのかなとも思う。だからたまに人生立ち止まって、小さな幸せに気づいて感謝する時間を作った方がいいのだと私はたまに思う。
こうやって、私は自分にとっての「幸せの形とは何か」と、自分に問い続け、答えを求めていた。しかし、私は一人旅をしている最中に自分にとっての「真の幸せの形」に気づくことができ、決してこの幸せの形の概念がブレることはないと確信した。それは、
「家族や親友といった、愛しい人たちとの繋がり」である。
そう確信したのは、一人旅の最中。トルコのイスタンブールにある海沿いの公園を一人で歩いていた時だ。ちょうど夕日が綺麗な時に私は海沿いを歩いていた。そこで見た夕日は、今でも忘れられないくらい美しかった。真オレンジの空に、黒い海がいいコントラストになっているうえ、奥には黒い影となった立派なモスクが偉大な迫力を醸し出していた。そんな美しい景色を見ていながら、私は幸福感を感じた。でも何かが足りない。幸福ではありつつも、その幸福度は100%ではなかった。
そして私は人間観察が大好きなので、一人で歩きながら夕日を見ている人達を観察していた。ビールを飲みながら語っている男2人組、お互いを抱き合っているカップル、家族でピクニックしている人達。だんだん夕日よりも、幸せそうな人達に私はついつい目がいってしまい、そこで私の幸福度は上がっていった。
「なんて幸せそうなんだろう」
私は幸せそうな人達を見て幸せになった。
その時私は思った。一人でいることは楽だし問題もあまり起きないし(対人関係)、めちゃくちゃ楽しい。そしてこの夕日を見ることができることだって素晴らしいこと。でも、結局こういう素晴らしい景色は、愛しい、大切な誰かと共有したいなと思ったし、そこで人との温もりで自分の幸福度は100%まで満たされるのだなと確信した。イスタンブールのどれだけ美しい夕日を見ようが、結局一人だと幸福度は100%に満たされない。この夕日をお母さんと見れたらな、親友と見れたらな。見せてあげたいな。そうすることができたら、すごい幸せだな、私。そう思ったのだ。そこで私はお金、仕事の成功や、モノでは得ることができない、人との温もりを通した幸せが自分の幸福度を一番満たしてくれるのだと改めて気付かされたし、この幸せを大切にしていきたいなと思った。
私は一人旅をしているシーンの中で、ちょくちょくそうは感じていたのだ。一人旅の最中、私は多くの人が経験できないことをしているなぁとは思っていて、素敵な景色はいっぱい見てきたし、世界遺産だって迫力的なものが多くて、感動する部分はもちろん多かった。でもなぜか心が100%満たされない。それは愛しい、大切な人が一緒にいないからなのだなと。結局、実家で家族とご飯を食べてる時や、親友とくだらないことで爆笑している時が一番幸せを感じるし、世界遺産なんてどうでも良くなる。大切で愛しい人といる時間の幸福度は、他のことをしている時の幸福度とは非にならない。
どんだけお金があっても、どんだけ仕事が成功して有名になっても、どんだけ欲しいものが買えても、どんだけ色んな国に旅行することができても、愛しくて大切な人たちの楽しい時間がなければ、私は多分幸せにはなれない。私から大切な人をとったら、きっと他の何を与えても私は幸せを感じられない。そう確信した。自分は愛しい人達、大切な人達、それは私にとっての家族と数少ない親友、そういう人達と過ごしている時が一番幸せなのだと気づいた。
好きでもない人と高級レストランに行くくらいなら、大好きな人とサイゼリヤに行きたい。簡単にいうとそういうことだ。正直、旅行もどこに行くかではなく、誰と行くかなのだ。
親はよく私に「あなたが元気でいてくれればそれで幸せ」って言葉をいう。昔はそんなことないでしょって、あまり信じたことがなかった。孫の顔を見せていないし、海外旅行にだって連れて行くことができていない。そう、親孝行ができてない。なのに、本当に幸せなのか?って思っていた。でも今なら親のその言葉の意味がすごくわかるかもしれない。愛しい人、大切な人が幸せならこっちまで幸せになってくるのだから。やはり人のパワーってすごい。
モノよりコトの大切さ。昔、大学の教授が言っていたことを思い出した。確か「幸せの経済学」とか?そういう講義名だった気がする。たくさんのモノを持っている人より、たくさんのコトを持っている人のが統計的に幸福度が高いといっていた。私はそれに大きく同意する。だって自分もそうだから。そして私はとってもコトに恵まれているから、とても幸せだ。