コミュ障のあれこれー心が痛いのは嫌だけど。。のはなし
今回は、表現が難しいので上手く書けるかわからないですが、変な話を書こうと思います。
私は言語化が苦手なコミュ障です。会話中に思いを伝えるときに「えーっと、うーんと」とつまづくことが多いです。なんなら鬼滅の刃の冨岡さんのように、物事を説明する時に、「。。あれは確か2年前。。」という感じで説明し出そうとすることがあり(笑)、相手にわかりやすく要点をまとめることが苦手です。すると相手の方は「こういうことかな?」とうまく要点をまとめてくれようとしてくれることも多いです。私は一旦話すのをやめて相手に譲り、相手のフォローに委ねながら一生懸命に気持ちを伝えようとアタフタしながら話をしています(ちなみに相手に伝わっていないときはもっとアタフタしています)。
そんな私ですが、ある瞬間だけ、絶対に会話のキャッチボールを相手に渡さない時があります。会話の内容が、「相手の心の繊細な部分」に触れているのがわかった時です。
人間は嫌なことを経験すると、ずっと長い間心に悲しい思いを抱えてしまうことがあります。普段元気に見える人でも、その人の中ではチラチラとその時の思いが顔を出し、「シュン」と元気がなくなることは大体の人は知っていると思います。
起こったことに対して自分なりに肯定的に見れているのであれば私のやることは必要ないので何もしないですが、一人では難しい時もあります。
私は自分の未熟さから何度も痛い思いをしてきました。その度に「あぁなんでこんなこと起こるんだろう」と思い嫌で嘆きますが、反面、「これをどんな風に捉えたら人の役に立てるだろうか」というように考える癖もあり、そのためにまず自分が先に癒されるよういろいろと試行錯誤してきました。
人には、元々持っている、その人自身の本来の自然な力強さというのがあると思っています。そして、自分の自然な力強さ、存在としての根本的な肯定感、「私はそれでいいんだ」という自己に対する絶対的な信頼感を取り戻すためには、根拠なく自己を肯定する作業が必要です。条件なく自分を大切にしてあげる作業です。
根拠なく自分を肯定すると、辛い時もある、怖い時もある、全然できない時もある、忘れてしまう時もある、怒る時もある、恥ずかしい時もある、悲しい時もある自分は、人間として当然であり、それが大前提として、それを認めた上で、そこから自分を好きになるように、自分で自分の性質を生かそうという方向へと変わることになります。
この肯定感を感じてもらうことが、私が絶対に譲らないことです。絶対に譲りません(笑)。なぜ私がそれに対してそこまで熱を感じるのかはわかりませんが、そういう性分なのだと思います。
そのためには、相手が自身についてどのように思っているのかを知る必要があります。それから必要であれば私と波長を合わせることをします。どうやって合わせているのかは無意識でわからないですが、人間は、強い方へ引っ張られる生き物だと思うので、私の中で感じる熱に委ねます。これが人に対する私の愛の表現です。
そのようにして人との関わりの中で、相手からも自分からも肯定されるときの満たされる感覚は、何度味わっても心地よいものです。
なので、みんなで助け合って生きたいので、痛いのは嫌ですが、そのための失敗多き「無能」という個性だと学んできたので、できる限り面白い視点で考えられるよう、これからも勝手に頑張ろうと思っています。
恥ずかしがり屋なのでこの思いを書こうと思ったことはありませんでしたが、思い切って書いてみました。
お読みいただき、ありがとうございました。何かの参考になれれば嬉しいです。
sayaka