妊娠してから10年経った。

ちょうど10年前、私は第一子を妊娠した。

なじみのない地域に配属され、孤独と戦いながらやっと4年。少しずつ手応えをつかみ始め、周囲からそれなりの評価も得始めていたころだった。

ところが、妊娠したその日を境に、見える景色は一変した。駆け出しの記者が妊娠、出産して、キャリアを積む道は、その時はまだ存在していなかったのだ。一夜にして、あっという間に戦力外の人として扱われるようになった。

子持ちの女性記者が生き残る道は、当時は1つしかなかった。ある程度キャリアを重ね、自分の地位を確立するまでは妊娠しない。そこまで頑張れば、出産後は、ママさん記者がよく行く部署などに配属してもらえることもあるし、中には一線で活躍し続けている人もいる。

しかし、駆け出しの間に妊娠してしまった場合、取り得る選択肢は①退職②記者ではない業務に転向する、の2つが主流だった。

その理由の一つとして、夫婦で同職種だった場合、同じ赴任地にしないという謎の不文律があった。このため、記者を続けるのであれば、単身赴任でワンオペ育児になってしまう。夫婦同居するためには、比較的多様なポストがある東京の本社的な所に異動するしかないが、そのためには実績を積み、評価されなければならない。しかし、子育て記者はそもそも評価対象から外されていた。八方塞がりである。どうやっても抜け出せない。どこからどうみても無理ゲーだ。

そんなこと、最初からわかっていたのだから妊娠するのが悪い、という有形無形の声に、自分自身その通りだとしか思えなかった。
しかし、やりたい仕事を続ける、ということにだけは一点の曇りもなかった私は、単身赴任ワンオペ育児にて記者を続ける道を選んだ。マミートラックにすら乗っていない泥沼のような状態からの抜け出し方は、全くわからなかったけど。

残業ができない、緊急対応できないとして、給料は実質半額になった。
家賃と光熱費を払ったら、ほとんど手元に残らない。保育料は夫が払ってくれたが、家計収入的には私がおとなしく退職する方が黒字だ。あらゆる制度が男性記者と専業主婦で構成される世帯を前提に設計されており、福利厚生の活用一つにしても交渉の連続だった。

他にやりがいを感じられる仕事に、転職をするのはどうか?何万回も考えた。転職エージェントの話を聞きにいったが、門前払いだった。ならば資格を取るのはどうか?育休中に受験勉強をして大学院に合格したが、待機児童問題で、学生の身分で入れる保育園がなく、諦めた。

色々ともがいたが、結局のところ、私は、自分が一度選び取った道を、道半ばで諦めたくなかったのだと思う。
私自身は何も変わっていないのに、体内に別の生命体が生じた途端、途端に目の前の道から転げ落ち、再起不能になる。確かに記者は24時間現場に駆けつけてなんぼと教育されてきて、自分自身、そうするのが当たり前だと思ってきた。それが出来ないのなら半人前と思われても仕方ないという論理も内在化されていた。でも、やはり、何かがおかしいと思う。そのおかしさをうまく言語化できない。

思えば、それまでもずっと何かおかしいと思うことはいっぱいあった。
何か違う、と思いながらうまく口に出来なかったこと。少しずつ感じてきた違和感が、あれもこれもと一気に噴出した。
妊娠して始めて、痛烈に思い知ったのだ。これは構造の問題だと。このもやがかかった違和感をつきつめて、言語化して、武装しないといけない。この違和感を、取材に昇華し、構造を動かすところまでやらないと、私は記者をまだ辞められない。そうすることでなんとか自分自身を保ってきたこの10年だった。

おかしいと思うこと、言わずにはいられないことを、取材の材料にし、自分を救うためにやりつづけていたら、少しずつ道が開けていって、2年前にようやく私は単身赴任ワンオペ育児から抜け出し、去年ようやく、給与も半額状態から人並みに戻った。

なんとかここまで、生き残った。渦中にいる間には、あまりにもしんどくて口に出したら自分が壊れてしまいそうで、言えないことがたくさんあった。

さすがに令和の世になり、環境はめまぐるしく変化している。
自分の会社でも、書き綴ってきたような古い慣習は徐々に失われてきた。
言葉にできなかった私と違って、若い世代はしっかり声を上げている。
その一方で、まだ信じがたいような事例も残っている。今、その苦しさを抱えている人と連帯したい。10年一区切りとして、少しずつ個人的な発信もしていきたい。

所属組織の制約もある中で、どのようなことなら書けるのか手探りだが、2021年の新しい取り組みとして、まずは個人的な経験から少しずつ発信していきたいと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?