今ここに、「虹を架けるような」。
昨日から止まないざわめきが、今朝から加速度的に鳴り止まず、身も心も落ち着かないのと裏腹に行動が止まり、私のピントが大きくずれています。
冗談を冗談として受け止められず、今、胸の中がざわざわで一杯です。
以前から、エイプリルフールは苦手です。
でも今日はエイプリルフールであってくれても構わないとすら思います。
冗談が本当に冗談なのかもわからなくなっています。
何を誰に聞けばよいのか考え、私には聞く術も資格も無い事に改めて気がつき、余計に苦しくなります。
私のアレルギー症状は幸い両腕だけで済み、今までの比較ではとても早く治まり、炎症の痕もほぼ消えました。
まだ力があまり入らないので、ゆっくり作業をしては休んでいます。
気持ちのざわめきにフォーカスしないよう、そこにはピントを合わせないよう意識すればする程、増えるざわざわの音が聞こえます。
今日だけの「冗談」であって欲しいと願うのは、私の深い所からの本心で、これ程に惑ってしまう事実に自分でも収まりがつきません。
ショック、なのでしょう。
今日の夕方からどうすればよいのか、それすらわからなくなってしまうのは、ショック中だからです。
目に見えることばかりを信じてきた私には、今、見えてしまっている状態がストレートに入ってきてしまい、辛いです。
目に見えないことを信じたいです。
そうなりたいと願い、なりかけていたはずです。
でも目に見えないことの中に私の壮大な勘違いが有るのかも知れなく、怖くもあります。
答え合わせがしたいです。
今はただ身の回りの、目の前の様々な物や事を整理しています。
ただひたすらに灯りのある方へとフォーカスし、こつこつ重ねていくことしか出来ません。
歯がゆいです。
歯がゆくも重ねていけば景色に辿り着く、その時に向かっているはずです。
私の勘違いなのでしょうか。
エイプリルフールなのでしょうか。
大切なんです。
私にとって、私自身が私を救い出すきっかけ、正に暗闇に射す一筋の光のような存在なんです。
大げさに聞こえるかもしれませんが、私の今までの人生全てが、今ここに辿り着く為の全てであり、間違いだらけだと思い込んでいた道のりが、正解だったと初めて思えたのです。
私は今、その方程式を分解し始めています。
新しく進むために、今一度、この身の回りを整理し始めたのが先月でした。
物も沢山、処分しながら、こつこつ変えています。
そういう私の行動に、全く興味の無い存在に対し、責めるような気持ちは微塵もありません。
平行線なので交わることは無く、仕方ないのです。
わかり合う事の正解は目に見えないことの中にあるのかも知れません。
わかり合えない事実は、今、私の身の回りに目に見えて存在しています。
誰も悪くなく、己を取り戻しにいく為の作業であり、目に見えることの中に、お互いが平行線で交わることはこの先も無いという事実が存在します。
その部分のみ既に合致し確認も理解も済み、後は時期と行動だけです。
笑っている人でありたいです。
守るべき存在の前で、もうこれ以上、無理をしながら嘘をつきながら、毎日の私がエイプリルフールです。
答え合わせがしたいと、これ程に思う今日は、胸騒ぎとざわめきと共に果てしなく長く感じ、冗談が冗談なのかもわからなくなり、私の今は止まっています。
動かさなければと一生懸命、思います。
思うだけで、動きません。
夕方までには、動きたいです。
冗談が冗談でありますようにと、願うことしか出来ない無力さに、押しつぶされそうです。
明日には変わっていますようにと、只々、思うのです。
自分勝手な私の願いは、非力です。
でも、一生懸命、動き始めようとしている今です。
抽象なわかりにくい文章で、すみません。
これが限界です。
また今日の夕方からは、笑っている私になります。
なれます。
画面越しでも、目に見えないものが伝わります。
目に見えないからこそ、伝わるのかも知れません。
私も立ち上がろう。
鍵を外してこよう。
私にとって、いちばん大切なリズムと音楽と、ひと、です。
私に出来ることは何だろうと、いつも考えています。
今ここに、いつも、いつでも、私にとっての光です。
「虹を架けるような」新しい灯りです。
※作詞・作曲・編曲 小沢健二 小沢健二「ある光」歌詞より「虹を架けるような」一文引用
小沢健二 - 春にして君を想う
「薄紅色に晴れた町色
涙がこぼれるのは何故と
子供のように甘えたいのだ
静かなタンゴのように」
作詞・作曲 小沢健二
18thシングル
1998年1月28日発売