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愛のかたち

とんと何かにどっぷりとハマることがなくなってしまったなぁと、ふと思ったりする。
周りには韓流アイドルやSnowManなど対象は様々だけれど、いわゆる推し活というようなことをしている友達もわりに多い。
私にとって"推し"という感覚がいまいちピンとこないのだけれど、それをいうなら"ファン"の方がなじみがある。
私は小学4年生のころ、CHAGE&ASKAのファンだった。それはそれは、とても素晴らしい体験だった。
ファンへの「愛」は家族や恋人、友人とは違った「愛」のかたち。なんだろう、みているだけで幸せとか、声を聞いただけで胸がいっぱいになるような。
フロムが「愛」は能動的な「与える」という形を持つといっていたけれど、見返りを求めないファンへの愛は、まったくその通りと思う。

当時チャゲアスを知らない人はいないくらい流行っていたけれど、9歳にして父親ほど歳の離れた男性デュオに夢中になるのは、なかなかの渋好みだったなと今は思う。
それまでは音楽はただ聴くものだったけれど、歌詞の大切さに気づいたのもチャゲアスから。ASKAの立場にたってその心情を深く理解したいと思う気持ちが生まれたのだ。しかし、ASKAの緻密で熟した大人の言葉を一つひとつ紐解くのは超ハード。ましてや難しい漢字は読めない。辞書を片手に単語を追い追い、歌詞カードには走り書きした読み仮名が残っていて、当時の自分が愛おしい。大大大大大好きだったのですよ、もう本当に。
その頃芸能人はテレビの向こう側の人たちという感覚で、実際に存在するのかどうかも不確かだった。生放送の『ミュージックステーション』に出演している姿を観ては、チャゲアス生きてる。と確信し、食事でもトイレでも移動中でもなく"今彼らはタモリと話をしている"という事実をこの目で見られることに深く感激したのだった。
そして行動にもお金にも制限のある小学生の身分だったのでファンクラブにも入れない、ライブの遠征もできないし、ミュージックビデオも持っていない。何度も曲を聴きながら、雑誌や写真を眺め、悶々と妄想を繰り返す自主活動を行うことが私の務めだった。しかしその妄想を繰り返す時間こそ、愛を深めていったのだと思う。郷ひろみも会えない時間が愛を育てるというようなことを歌っているから間違いない。

同じクラスに唯一ひとりだけチャゲアスの話ができるKさんがいた。お母さんが熱烈なチャゲアスファンで親子で応援をしていたのだった。家に遊びにいくと見渡す限りチャゲアスで、ポスターが全方向にベタベタ貼ってありグッズも山ほどあって、なんかもう全面的に負けた、と思った。そしてK母の語るチャゲアス談には歴史があって、なんというか地層のような愛の分厚さを感じ、ただただ嫉妬した。はやく大人になりたいと生まれてはじめて強く願ったのだった。
とはいえK母は、ファンクラブの力を使ってコンサートチケットを取ってくれたりしたので、頭が上がりません。
全身全霊のチャゲアスへの想いは、全く振り向いてくれない先輩への熱い想いのようでも、目と目が合った瞬間に落ちるような恋心でもない、例えるならひとりで鍋の前でぐつぐつとジャムを煮詰めるような…静かに築き上げる愛であった。その愛は直接彼らに届くわけでもないし、ましてや見返りを求めるわけでもない、ただ”愛している”という真実が私を包みこんだ。これは後にも先にもない愛のかたちだったように思う。

かつての想いは、煮詰まったジャムが乾いて飴に変わっている。たまにチャゲアスを聴くと飴が溶けだし、あのときの情熱が全身に蘇ってきて、切なくて、カッコよくて、たまらない気持ちになる。しかし当時と変わらないくらい心は揺さぶられるけれど、今の感情の大半がノスタルジックな気持ちが占めていることや、チャゲアスがもう解散していることなんかを考えはじめると、なんとも寂しい後味が残るのだった。
またあんな熱量をもって、この先の人生で誰かにどっぷりとハマることはあるのだろうか。
しかし家族もある身で私がまた盲目な推し活をはじめてしまったら、いろいろが崩れてしまいそうなので、今は飴をしゃぶっているくらいがちょうどいいのかもしれないね。

最後に、私が当時よからぬ恋の相手として夜な夜な妄想していた『DO YA DO』のリンクを置いておきます。今やっとSpotifyでCHAGE&ASKAが聴けるようになったので(いろいろあったからネ)、合わせて聴いてもらえるとうれしいです。




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