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いくつになってもなりたい私になれる

「子どものために何かしたい」

漠然と頭にそれだけがあって、ずっとぐるぐるしていた。

高校生の時、児童虐待のニュースを観た。
あまりに衝撃的すぎて、どこか遠くの私の知らない世界のように思えた。
「なぜ親が子どもに暴力を振るうのか。」
「こんな親が、こんな目に遭ってしまう子どもが、同じ日本にいるのか。」

「私はこんな目に遭っていないし、幸せなんだな」

ここから私の「子どもの幸せ」を願う気持ちが強くなった。

いつか、いつか私が「あの子達」を助ける。
子どもは、当たり前に遊んで食べて寝て笑って暮らすべきなんだ。

そんな気持ちで学んできた。

資格をとっても、結局その道には行かず(行けず)、あの衝撃からずっと彼らを救えずに15年が経った。相変わらず児童虐待はテレビで報じられて、きっとあの頃と世の中は何も変わっていない。その度に苦しい。加害者と同じ大人になってからは、自責の念に駆られたり。

常々「子どものために何かしたい」と夫には口にしてきて、
じゃあ、今からでも、虐待を受けてしまった子どもたちの命を救うようなことが私にはできるだろうかと考えるようになった。
「児童福祉を学んできた」と周囲に話すと「今からでもそっちの道に行きたいか」と問われることがある。そのたび、即答できない自分がいた。

子どもが悲しい思いをしている、我慢をしている、自分を押し殺している、
そんな場面に出くわすと必ず涙が出てくる。
子どもの陰った表情を見ていられない。完全に感情移入してしまう。
感情を吐露すると涙が止まらない性分で、でもここ数年でやっとその性質を手なづけた。それでも、どうやったって子どものそれらを目の当たりにしては泣くことを止められない。

こんな私には、ひどく傷ついた彼らを救うことなどできない。できるわけがない。わかりきったことだけど、気づきたくなかった。夫と話しながら、そのことに正面から対峙して落胆した。

あぁ、私は無力だ。
結局私の思いは綺麗事で、向き合うことすらできないんだ。

私には福祉は向かないな。誰かの幸せとか救うとか、私はそういうことから離れた仕事をした方が幸せなのかもしれない。


でも、
やっぱり、
今を生きる子どもたちの幸せを願わずにはいられなかった。

子どもたちには、当たり前に希望を持って生きていってほしい。生きててよかった、明日が来るのが楽しみだと思える日々を過ごしてほしい。一人でも多くの子どもに、深呼吸ができる安心感とエネルギーに満ち溢れる豊かさを感じていてほしい。


私にできることは何だろう。

自分をすり減らしてまで誰かを助けることはないとこの数年で学んだ。自分を大切にできて初めて、人を大切にできる、幸せにできると学んだ。

私がすり減らずに、でも、この子どもたちへの思いをしっかりと昇華させていくにはどうしたらいいだろう。

ぐるぐるぐるぐる、しばらく考えていた。

ふと、「私は救いたいのは子どもの頃の私なのかもしれない」と気付いてから目の前がパーンっと開けたような感覚を得た。

暴力を受けていたわけではない。愛情を持って大切に育ててもらったと思っているし、両親には感謝している。
でも、「いい子」のレッテルを貼られ、長いレールを敷かれ、人生の走り方、道の選び方、止まり方を手取り足取り教えられてきたことが、私はとても辛かったんだ。

「辛かった」と思うのにもとても時間がかかって、ずっと「世の中には虐待を受けている子がいるのだから」と誤魔化して生きてきたんだと気づく。
今がとても輝いて、茨の道も恐れず、自分でその道を選んだ喜びを噛み締めて進んでいるからこそ、幼い頃の私に言いたいのだ。
「もっとわがままでいい。親の期待を裏切っていい。本当の自分を曝け出してもいいんだよ。」と。

地元の公務員を退職すると言った時、両親はあっけに取られた表情の後、苦虫を噛むような表情でしばらく口を閉ざした。「そうか」と父は一言だけ言って、キッチンで洗い物をしていた母は、きっと聞こえないふりをしていた。毎週きていた母からのLINEが、もう丸1か月来ない。きっと分かってくれている。私は両親を信じてる。何となくやっと、両親も子離れ出来るんじゃないだろうか。私こそ、きっとずっと親離れできていなかった。大切に大切に育ててもらったその愛情はしっかり受け止めている。



私にできることは、そういう、子どもの頃の私のように「いい子」でいすぎる子たちが子どもの内に、のびやかに深呼吸できる時間を作ることなのかもしれない。どうしたって子どもと親は切り離せない。子どもの世界は関わっている大人によって作られていると思う。「ここでは取り繕わなくていいんだ」と思える瞬間をほんのちょっとでも提供したいなあとぼんやり考えている。

やり方は色々あるだろうけど、今は私自身イラストを描くことに夢中。
写真×イラストで、なりたい自分になれたり、自由になれるようなサービスが面白いなと思ったりしている。
絵を描くことは、私にとっては自由の象徴だったから、だから好きなんだと思う。好きなことを描いて、自分も表現できて、親にも褒められて(笑)、ありのままの私であっても親にも認められる、私にとっては救いのような素晴らしい手段だったんだなと今思えば。

アートは感受性も豊かにするし、きっと日常に少しだけきらめきももたらす。子どもたちと自由に絵を描くイベントも、いつかやってみたいなーと妄想したり。
絵を勉強してきたわけじゃないし、その時の直感で全て描いているから、誰かに教えられる立場じゃないと引け目を感じていたけど、「絵を楽しむ」ことなら私にも伝えられるよね。

今、私は、子どもたちと一緒にわくわくしながら自由に遊びたいのかもしれない。子どもにしては世の中を俯瞰して、周囲の目を気にして無邪気であれなかった子どもの頃の私の代わりに。私は、世の中の子どもたちを幸せにする前に、子どもの頃の私を幸せにしたいんだな。

辛かったあの頃の私。
私はこれから、やっと自分で選んだ道を行くよ。何でもできるような気がして、わくわくしてたまらないよ。こんなにわくわくできる日がいつか来る。でも本音を言えば、もっと小さな頃からこのわくわくを感じていて欲しかったな。32歳になったよ。ここに来るまで長かったけど、人生はまだまだ長いからきっと大丈夫。

いくつになっても、今からでも、きっと自分は変われる、変えられる。
なりたい私になれる。なってみせるよ。待っててね、あの頃の私。


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