「トイレの神様とヨーガスートラ:面倒な大掃除で心を清める秘訣」
こんにちは!
ヨガインストラクターの吉田紗弥です。
今年も終わりに近づいていますが、
皆様いかがお過ごしでしょうか?
今日もヨガのお話から進めてまります。
今から約2000年前に成立されたとされる
ヨガの根本経典「ヨーガスートラ」
には私たちの生活をより良くするための
賢者の教えが記されております。
その中から一節ご紹介いたします。
イーシュワラ・プラニダーナという意味は、
神に全てを委ねること、という意味です。
私たちは普段、
キリスト教なら教会へ行った時、
イスラム教ならモスクへ行った時、
そして神社にお参りへ行った時など
神様という存在を考えますね。
けれども
ヨガの世界では、
神様というのは私たちの
目の前に存在しているすべてのこと、
また、起こる事すべてを
神様の思し召しと考えます。
何気ない友達からの言葉、
助言やアドバイス、
また、ふと目にする
広告の文字や
入ってくる音楽の歌詞など、
目の前に差し出されるあらゆる
事について、
ありがたく受け取る事を
イーシュワラ・プラニダーナと
意味付けされます。
そして、この一説の「サマーディー」と
いう意味は簡単に説明すると、
至福感に包まれた状態、
光のシャワーを浴びたような
とても幸せな状態を表します。
ですのでこの一説は、
「目の前に起こるすべての事を
受け入れ、身を委ねることによって
至福感を得ることができる」
という教えになります。
私たちは普段、
自分によって良いことが起こると
「神様ありがとう」と素直に思えるのですが、
自分の苦手なことや嫌いなことが
目の前に差し出されると
「神様は意地悪だ」と
思ってしまう時があります。
けれどもその目の前に
差し出されている
望まない現実の背後には、
深い意味が含まれており、
それはわたしたちを至福感へ導くための
ステップだと気づくことができれば、
私たちは自分自身の可能性を
開いていくことができるのです。
例えば、
学生の頃は学校でさまざまな宿題が出されます。国語が苦手でも
その国語の宿題が差し出されますね。
その差し出された苦手な
宿題を避けることなく、
こなしていくと、
次第に文章が読めるようになり、
漫画や本が読めるようになり、
新聞や、小説、
様々な書物を通して世界と
繋がっていくことができるでしょう。
わたしたちは自分の目の前に
差し出される現実に抗う事なく、
自然と受け入れることで
私たちの人生の可能性は
どんどんと広がっていくのです。
ここから
私のお話をさせていただきます。
年末年始が近づき、
吉田家でも、
「大掃除」という一大イベントが
始まろうとしていました。
私は家事の中で掃除が1番嫌いで、
毎回毎回、面倒な掃除に向かい合い、
重い腰をうちにあげてやっております。
今回最大の
大掃除に向き合わなければならないという
葛藤でモヤモヤ。
憂鬱な気持ち募る中、
あらゆるテレビの番組は
便利な掃除道具や
汚れの取れるうんちくなどを放送し、
さらには、
SNSを開けば
大掃除に関する動画や
サイトが...
これは
目の前にある世界が
私に対して
「掃除をすればスッキリして新年を迎えられますよ」
と教えてくれているんだろうな...
と頭では分かりつつ、
なかなか重い腰が上がらない...
そんなふうに感じているある日、
朝、ダラダラしながら
テレビを見ていると、
ある番組で、
植村花菜さんがテレビ出演で
「トイレの神様」を歌っていたのです。
この曲は2010年に流行した歌で、
9分もある歌なのですが、
これがものすごい感動的な歌詞と
メロディ。
おばあちゃんから教わった
「トイレをきれいにすると美しい女神様がいて、
きれいになれる」という話を軸に、
主人公が祖母との暮らしを振り返る歌です。
子どもの頃、
祖母と過ごした時間から
歌い手が成長し、
祖母との別れを迎えた後、
その教えの深さに気づきます。
歌詞は、
日常の中にある家族の愛や
別れの切なさを美しく描き、
聞く人に涙と感動を届ける
感動的なストーリーになっています。
植村花菜さんが
その歌を歌っているところを見て
朝から
ギャン泣きです。
大号泣し、
目の前にティッシュの山。
朝から目を晴らし
鼻を赤くし、
10年前に何気なく聴いていた音楽が
こんなにも
美しい歌詞だったなんて!
そんな音楽を聴いた後は、
心が綺麗にならないわけがありません。
疎ましいと感じていた
掃除にやる気スイッチがようやく
オンになり、
掃除をする事
で私も歌の歌詞の主人公のように、
亡くなった祖母に恩返ししているような
温かい気持ちになり
心も家も
ピカピカになり、
億劫だった大掃除を終えることが
できたのです。
私たちの目の前に
広がるこの世界は
様々な現実を
与えてくれています。
そして
私達は、望まない事が目の前に差し出されると
それを拒否してしまいがちです。
しかしその
拒否したくなる現実の背後には
私たちがまだ知らない
至福感が広がっているはずです。
まるで
厳しい寒さを受け入れ
春になり、
美しい花を咲かす桜の木のように、
私たちも
目の前に差し出される世界に
身を委ね、
人生に喜びの花を咲かして
いきましょう!