「イジメ」の理由は作られる。

先日、「いじめられるのには理由がある」という論を読んでとても残念な気持ちになった管理人です。

ここにも随分と自己愛について書いてきましたから他の記事をお読みの読者様はお気づきだと思いますが、「いじめらられるには理由がある」は加害者のいわば洗脳の結果信じ込まされた理論のひとつといっていいかと思います。


加害者(その多くは自己愛性人格障害)はなぜ人をいじめるのか?


人の行動には理由があります。いじめにも理由があります。
でも それは被害に遭う人に理由があるのではなく、いじめる側に理由があります。

いじめ加害者にとっていじめにはメリットがあります。
いじめっ子にとってのいじめは、お腹が空いて今にも死にそうな人間が欲する食べ物と同じようなものです。

自己愛は自分ひとりで精神的に立っていることができない状態にあります。
そのため、なにがなんでも自分ではないもので自分を補う必要があります。
いじめは自己愛にとって「自分はこいつよりも価値が高い」と、自己愛自身の存在を肯定するための糧となります。



いじめられる理由?

もしいじめられる理由があるとすれば、それは運悪く自己愛の目に止まったからです。

理由=責任ではありません

どうして自己愛の目に止まるのかといえば、「メリットしか無いから」です。いじめっ子はデメリットの方が上回りそうな人間には手を出しません。報復が怖い相手には手を出しません。「いじめられっぱなしになってくれそう」だと思われたからいじめられたのです。

優しすぎたのかもしれません。自分が悪いのかも?と思い込まされているのかもしれません。自分自身に攻撃的な行動を禁止しているのかもしれません。

その多くは「弱いから」といった言われ方をしますが、自己愛より強いです。なぜなら自分で痛みを引き受けることができる時点で、自分で立つことができる時点で、自己愛よりもはるかに健全な精神状態にあるのですから。



自己愛はいじめる理由を作る

自己愛はいつも自分が正しいという位置にいたがります。なので、相手にこそいじめられる理由があるのだという風に本気で信じ込んでいますし、そのように周りをコントロールしようとします。

あいつは臭い。あいつはノロイ。あいつはみんなに迷惑をかけているから自分が制裁を加えたのだ。というように。障害者を殺傷した事件がありましたが、あれと同じ考え方です。実際植松被告は自己愛性パーソナリティ障害だと精神鑑定されています。

発達障害の人間がよくいじめのターゲットになりますが、それは彼らが自己愛からみて自己愛よりも自由に見えること(嫉妬)と、マジョリティ向けの場所からはみ出しがちで攻撃の理由を作りやすく、それまでの人生経験によって自己肯定感が下がってしまっているケースが多いからです。また、学校や職場という場所そのものが「教師に従うことで成立し、閉鎖的で流動性に乏しい空間でベタベタと仲良く付き合うこと」を要求されるからというのも大きな環境的な理由です。

健全な精神状態にある人はストレスを感じる人とは距離をおきます。距離感を調整することで人間関係を心地のいいバランスにしようと試みます。でも自己愛はいじめたいという欲求が先にあるので「正義」のために攻撃したというストーリーを作り、不安定な自分由来のストレスを他人を使って発散します。実は「あいつは見ているとムカつく」のではありません。常にムカついているので発散できる理由を作り出して八つ当たりしているのです。



いじめられる側にも理由があるとしたい人達(学校教師)

学校の教員の環境が非常にブラックであることは現代では随分と周知されるようになりました。学校の先生も人間ですから仕事が増えるのは面倒くさいのです。いじめ問題というのは面倒くさい案件なのです。いじめっ子もいじめられっ子も面倒くさい存在なのです。

いじめの対応は面倒くさいと思っていたらどうなるのがいいと思いますか?

そうです。被害者がただ黙って耐えてくれていた方が都合がいいのです。表沙汰にならなければ「いじめ問題」そのものが自分の仕事のタスクから外れますから。

「いじめは双方に原因がある。」としてしまえば、これは人権問題ではなく単なる喧嘩と同様の問題へと問題の重大さが矮小化されます。要は仕事が減ります。

いじめは人権問題ですが、人権意識が高い学校教職員は実際多くありません。髪の色、髪型、下着の色…今でもびっくりするような人権侵害の校則にまみれているのが学校という場所ですから。


いじめは人権侵害。校内犯罪である。

自己愛はいじめ依存症です。いじめなくては自我が崩壊の危機にあります。カウンセリングや治療が必要なのはむしろいじめっこです。
これはいち教師が忙殺されるような業務を抱える中でやれるほど小さな問題ではありません。教師は気がついたら即時、法的な対応とり、触法少年・少女を指導する機関&心理的なケアを専門とする人間に問題となった人物を引き渡すことが本来ならば望ましいのです。
日本ではなぜか学校という場所でおきた犯罪が罪に問われません。法的な問題であるにも関わらず教育の問題であるとすり替えられてしまいます。いわば学校という場所だけ無法地帯です。自由であるはずのものにまで公的な学校という機関により規則で禁止されている事項が山のようにあるのですから、いわば人権が守られていない、憲法すらも守られていないのが現状です。
ブラック校則というものがやっと話題になるようになってきました。少しずつ 少しずつ風通しがよくなってきているのを感じます。いじめ問題(校内犯罪)についても、学校という独立してしまっている公的機関だけで対処するのではない、他の機関との連携がスムーズになされる時代になっていくといいですね。


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