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「居心地のよさ」とは

まず、居心地のよさは二つに分けられると思います。
現在と比べた時の逃避型と、プラスにしていく構築型。

逃避型はだいたい、今ある居心地のわるさを取り除いたり、居心地のわるさがないところを目指します。ここには少しの罪悪感が紛れ込む印象。

構築型はおそらく、今ある居心地のわるさの中から良さを見つけだして増強していくのだと思います。これは少々麻痺や、自己犠牲のような感覚も入っている気がします。

どちらもケースバイケースで必要な居心地のよさです。


マカロニえんぴつの『なんでもないや、』の歌詞に「君といる時の僕が好きだ」という一節があります。

好きな自分でいられることに、居心地のよさを感じている僕。
逆に居心地がわるい場所は、嫌いな僕でいることで調和する世界かもしれませんね。

わたしはこの歌詞がとても好きです。
好きな自分でいられるって、大人になればなるほど難しいなと。だって小さい頃より、いろんなことを考えられるようになっちゃったので。


わたしの中の居心地のよい場所は「好きがある」場所です。
人と居ても、その人の中に好きを見出すとグッと居心地のよさと感じることが多いです。構築型ですね。

好きは自分の中にあるものだから、外部に脅かされることはない。それが居心地の良さをつくっているのだと思います。

自分の好きがわからないと、嫌いを遠ざけて近いものを作ろうとする。
好きを見出せることは、幸福で、心地よさを作ることができる能力だと思っています。

嫌いを遠ざけていると、人はよく
「人の良いところだけを見ましょう!」とか言います。
苦手です。

悪いところも見えてしまったら、どうしようもないのでは?と感じていました。

最近では、悪いところも、良いところを構成する一部なのだから、むしろ見るべきでは?とすら考えています。
良いところよりも悪いところが見えるのなら、悪いところが織りなす良いところを探す。

入り口を変えなくても、行き着くところは同じですし、このほうが許しが増えるなあと思っています。

無理して良いところだけを探すより、自分を騙さないこの方法のほうが、好きな自分でいられました。居心地がよいです。

そもそも良いところ悪いところなんてのは、絶対的なものではないので。


ここ数年、逃避の方向に引力が働いていると感じています。
『逃げるは恥だが役に立つ』をはじめとして、プロ奢られヤーの『嫌なこと、全部やめても生きられる』など、逃げのメッセージが含まれているものが流行っていると、SNSを徘徊しながら思います。

ぜんぜん、逃げる。
ただ、逃げる先に好きがあると、もう少し居心地が良い。

逃げたいときは手遅れだから、居心地がよいうちに「どんな好きがあるか?」を考えておきます。

好きの種類と深さをおおく持つこと。好きを探す目を磨くこと。好きが壊れそうになったら一旦逃げること。

そしたら100歳になったわたしは、人生でいちばん居心地のよいところにいるはず。


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