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八月の狂詩曲 I 謦咳に接した記憶

 謦咳けいがいに接するという言葉を初めて知りました。
 敬意すべき貴人の、咳ばらいの声が届く距離に寄るとかいう意味だそうです。なんとも難しいお題だなと思っていたら、むくむくとある体験が思い出されました。

 先日、八甲田山という映画について語りました。
 それで森谷司郎という映画監督に憧れて、原作の新田次郎を敬慕したという所まではお話しましたっけ。そう気づいてしまったのですよ。
 そうして自分で原作を書いて、それを映画化するのというのを生涯の夢ととらえて、それを未だに忘れずにとうとう還暦まで参りました。

 中学3年生の頃でしょうか。
 森谷監督は長らく黒澤組で助監督を務めていたと、つまりは黒澤明監督の系譜に当たるのだと知りました。そして初めて黒澤映画に触れたのが「影武者」でした。実はこれが全てのボタンの掛け違いでして。
 初見での「影武者」の評価は随分と低く、それで若年の至りでは白黒時代の黒澤映画にはとんと興味がありませんで。

 関西学院大学に進学して、まずは映画サークルに入りました。
 その時期に編集作業の完徹2夜の状態で「用心棒」を見たのですね。
 まあ子守唄代わりでもとか思っていて。それが疲労しきった頭が研ぎ澄まされた2時間でした。
 しかも当時は梅田の映画館が終館するというので、連日黒澤映画をリバイバルしていまして。電車に揺られ、食事はパンのみで連日連夜食いつくように鑑賞していました。
「用心棒」「椿三十郎」「七人の侍」などなど。
 爾来、黒澤明は神である。
 と心中に刻んだのですね。
 あの「影武者」も幼い頭では理解できず。しかも地方の音響の悪い館でしたので、台詞がほとんど聞こえなかったんですね。

黒澤明監督と本多猪四郎監督

 百舌さん、長崎で黒澤監督が現代劇の映画撮るんだって。きみさぁ、現場レポしてエキストラで出てくれない?

 地方誌やラジオ局に出入りして、文章を売って生活していた頃にそんな魅力的なお誘いを受けましてね。
 いわば神さまを直に観れると!
 それで炎天下の撮影に参加しましたよ。
 それが「八月の狂詩曲ラプソディー」でした。

 リアリズムの極致であった黒澤監督は、通行人がフィルムの2か所に出るのは不自然だと、一般のエキストラ参加は一回きりというお達しがでてましたが、レポのお仕事も受けたせいかの3っつの現場。
 炎天下でじっと待ちましたよ。
 なぜロケでこんなに待つのか。
 いやいや高倉健さんは、あの冬の八甲田で何時間も足踏みしながら耐えたのであると、暑いのくらいなんだと。
 そのうち風聞で「黒澤監督は昨日と空の色が同じになるのを待っているらしい」などと現場からの声が流れてきました。
 おおお。凄いな。
 私も自主映画を何本か撮影したのですが、そんな着眼点はなかったな。
 その撮影では平和公園の現場から、階段を降りてゆかれる黒澤明監督と演出補佐をした「ゴジラ」の本多猪四郎監督が打合せをしつつ談笑している姿がみれました。

 さて別日です。
 長崎空港でのシーンにも参加して、その午後休憩でしょうか。
 私は非常階段の横で水分補給をしていますと。その関係者以外お断りのドアが内側から開いて、あの黒澤明がぬっと現れました。
 洞窟から龍が降臨したばかりに驚きまして、駆け寄ると助監督らしき若手に食い止められました。
「サイン?だめだめ。まだ撮影中」
 そのときに、尊敬しております、と脈絡なく叫びまして。
 サングラスで双眸は窺えなかったものの、その周囲が緩く笑ったように見えました。思えば長身の方で、その表情を脳裏に刻むために私は、仰け反るようにして立っていたのです。

 まあ、それが謦咳に接した記憶というので、呼び起こされた若き日の一コマでありましてね。

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