マン島TT 2
当時の本田技研は経営危機だった。
戦後間もない1954年のことだ。未だに町工場というカテゴリーの状態で、部品もメーカー品を購入して制作する。溶接ですら外注の時期で。
その前年に発売したドリームE型がクレームになり、さらにはFRPでモノコックという先鋭的なスクーター、ジュノオが極端は販売不振に陥っていた。
その年の売り上げが4億円規模なのに、設備投資に4億円を投じ、その決済に手形が15億円を切っている。
いや恐ろしい。
なんという博打な経営。
しかもこの年にブラジル、サンパウロ国際レースに初めてチーム参戦を果たしている。
社長である本田宗一郎が厳命したのは「完走」である。
無理もないよねえ。
当時の日本には+ねじが存在しなかった。
この前後に本田宗一郎は渡欧して。
初めてマン島TTレースを見学して、ジレラのマシンを見てパーツを大量に購入する。その帰りの空港に落ちていた+ねじを宗一郎が拾って。
「なんだこれ?」というありさまだった。
サンパウロの話に戻る。
現地でも苦心惨憺たるもので。
ライバルが30馬力のなかで、せいぜい6馬力のプライベーターに等しいマシンだった。たった2人の遠征チームは、本番に備えて代車を借りてコース練習をした。下見で破損したら元も子もないという崖っぷち。
この時にレンタルされたのがAJSのレーサーらしい。
ともかく慎重なレース運びで、このチームは13位完走を果たした。
ここで滞在費の問題が発生する。
当時の日本はドル不足だったので、外貨の持ち出し枠があって手持ちの外貨が尽きていた。それでなけなしのマシンを現地で売って、日系人の寄付もあって。なんとか滞在費を捻出して、激励会を開いて帰国したという。
帰国して喜び勇んで東京本社に二人が報告にいく。
宗一郎は社長室を好まない。常に工場でスパナを握っている職人だった。
そのときの彼は玄関先のソファで新聞を広げていた。
合わさない視線のまま報告を終えると、新聞紙の影で「ご苦労」と一言だけ。彼らは大いに落胆してしまう。
完走の上を期待していたんだな。
失意のうちに浜松に戻ると、皆が肩を叩いて誉めそやす。
なんとまあ、当の宗一郎が浜松の町中に自慢して回っていたという。
あの新聞紙の影で隠していたのは、照れ笑いなのか涙目なんだろうか。
まさしく彼は立志伝の人物だと思う。
実は経営主体は藤沢専務が行っていた。
社長は現場で、常務が経営という二頭体制が当時の本田技研だった。
彼のホンダへの貢献がどのようなものかというと、1950年の年間生産数876台を、半年で月産300台、一年後には月産7000台にするという辣腕だった。
・・・どうみても異世界でしかありえませんね。
その爆発的な結果が、54年の危機となる。
過度な拡大は過度な生産設備投資が必要であったし、リコール数も過度になってしまい手形が雪だるま式に増えてしまった。
しかしながらその15億の手形も藤沢常務の手腕で、何とか乗り切った。
さすがに不眠症に陥った宗一郎は、夜泣き蕎麦の呼び込みラッパに立腹して。妻に命じて、その蕎麦屋台の蕎麦を全品買切るという、まあ微笑ましいエピソードもある。
「だってよ。あっち行けっていってもよ。あちらも商売が成り立たねえよ」
それだけの借金がある彼に怖いものは、ない。
この時期にです。
かの藤沢専務が口添えするのです。
「社長、危機の時こそ夢は大事ですよね。社長には夢がありますよね」
そう。そんな時期なのです。
彼はミカン箱に上に立ち、マン島TTレースへの参戦を宣言するんです。