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ガソリンスタンドの彼女(後編)

(前編↓)


あおいは、ナカネさんがアルバイトを辞めるまでの一日一日を大切にしたいと思った。

ナカネさんは午前九時から午後三時までの勤務だった。自分はアルバイトとはいえなるべく収入も必要だったからオープンの七時くらいからクローズする午後七時までフルに働いていた。朝が早いのは元々苦痛ではなかった。休みは店の定休日である日曜日と、夏なら盆の時期の三日間がそうだった。

平日は出勤後しばらくすると朝のピークがくる。小さな街なので手が足りないというほどではない。道路から入ってくる車を誘導する。天井からノズルが下がっているタイプで、レギュラーと無鉛ハイオクとが別れていた。いつもくる客ならどちらかすぐ判断がついて誘導しやすいし、だいたいが客の方でわかっているのでその必要もほとんどなかった。おはようございます、と声をかけながら給油口を開けてもらい、必要ならメンバーカードを受け取る。絞ったタオルでフロントからサイドミラー、リアへ順に窓を拭く。自動で給油ノズルがカチャっと止まる、精算してレシートをドライバーに渡し、あるいは相手によってはサインをもらって決まった箱にいれておく。ありがとうございました、と見送る。

軽油の給油機はガソリンとは別のスペースにある。運送会社の大型トラックが来ることが多かったから、屋根のない広い場所が必要だった。

そうしているとナカネさんが出勤してくる。おはよう。おはようございます。あおいの心がほぐれる。傍目には他愛もない一日が過ぎていく。そうやってあおいは自分の態度に気を遣い、少しは会話もしながら常に何気なくナカネさんの姿を追う。赤い半袖のボタンシャツと同じ色でツバが黒のキャップ、そして膝丈の黒のキュロットが女性用の制服だ。あとは帽子から下がる後ろ髪、それで満足だった。

もう残りが二日ほどになってきた。名残惜しい八月の上旬、いつものように眩しい日差しが照り付けて暑い午後、普通車のガソリン給油をナカネさんと社員と自分の三人で対応していると、得意先の大型トラックが入店してきた。一番近い側にいたナカネさんが軽油の給油場所に駆け寄っていく。それを見てあおいは窓拭きもそこそこに同じ方に早足で向かう。

軽油は、軍手をしていても手が汚れるし、直接触れると荒れてしまうから男がするという口伝の決まりがあった。親族で経理のパートに来ている女の人が軽油を入れているところもほとんど見ないし、ナカネさんが軽油の給油をしている姿は一度も見たことがなかった。ガソリンと要領は一緒だとはいえ。

ナカネさん!そこ、代わるよ!
追いついたあおいは、彼女が恐る恐るといったふうで手を伸ばしていたノズルを横から取る。
素手じゃん、手が荒れるよ。
ドライバーからカードを受け取り軍手を嵌めて慣れた手つきであおいが給油を開始する。

大型トラックの給油には時間がかかる。タンクひとつが大きいうえに同じだけのリザーブタンクもある。その間、他の客も入って来ないようなのでナカネさんはあおいのすぐ横でそれを見ている。大型トラックは窓も高い位置にあるから拭く必要はなかった。ノズルがカチッと鳴るのをひたすら待つ。さっきのガソリン車の給油のほうは終わったようだった。

ナカネさん、下の名前はなんていうの?
不意に尋ねた。

あ、ケイコです。
彼女にとっても突然の質問だからか語尾が、です、になっている。

ケイコさん、ね。あ、ほら、タイムカードには苗字しか書いてないから、と質問の意図を明確にする。実際に下の名前を確かめようと彼女のタイムカードを見た時に、苗字しか書かれていなかった。会社も彼女が短期だからか手を抜いていたのか。

そうなのよね。

留学するんだよね。

うん、そう、する。

あおいは今になって自分の背中を蹴り飛ばしてやりたいように思う。もっと言うべきことがあるだろう。

給油場の、あおいの隣に立っているナカネさん、ケイコさんからはなにか温かい空気が漂ってきていている気がする。軽油ノズルの二回目のカチャ、が鳴る。リザーブタンクの給油も終わり、ノズルを器械の定位置に戻しキャップを閉め、軍手を外しレシートを器械から切り取り、ドライバーに渡す。ナカネさんと店舗事務所に戻る。

最終日、午後の三時が来る。皆で簡単にお別れの挨拶をする。

スタンドの敷地をナカネさんは道路の方に歩いていく。そこからワンブロック離れた空き地に従業員駐車場がある。ナカネさんは家族の赤いコンパクトカーに乗っていて、いつもたいていそこを出たらスタンドの前を通って帰っていく。

その日もあおいは彼女がそこを通るのを待つが、なかなか来ない。今日は通らないのかと諦めて道路に背を向けて、でももしかしたらと振り返ったら赤い車が右から来てあおいの前を通り過ぎていった。

彼女の上半身のシルエットが見える。ちら、と顔がこちらを見たような気がする。

ある日、店舗事務所の奥の外向きの机でお昼を食べていると、経理のパートの女の人が、接客を終えて入ってきた。

ねえねえ、今の人、あのバイトの女の子最近見ないけど、って言ってた。あの子、意外と人気あったみたいね、と主任と話している。辞めたよって教えてあげたらちょっと残念みたいなこと言ってた。

あおいは聞き耳を立てる。

おお、そうだな、でもあの子はあおいくんに気があったんじゃないか。

初耳である。

へえそうだったんだ、とパートの女の人。

主任はどこまで本気で言っているのか、あおいは掴みかねる。

今、一度だけ昔に戻れるとしたら
あの並んで軽油を入れているところだろう、とあおいは妄想する。そして自分の背中を蹴ってやるのだ。

いや、やっぱりそれじゃあ自分がかわいそうだから、耳元で入れ知恵をしてやる。主任の言ってることが外れてたら、ごめんな。



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