5回目 税務調査の在り方について 4
「2 私の経歴(看板に偽りなし)」の続き
普通科研修時代は、今でも忘れられない。真っ先に思い出されるのは、入寮して一週間も経たないうちに運動器具で左腕を骨折し、手術をするなど一ケ月も入院したことである。その時は首になるのではないかと落ち込んだのを覚えている。退院後は遅れを取り戻すため、時間外に教育官と一対一で講義を受けたのである。
普通科研修は全寮制で、一室2~3名で寝食をともにした。朝のラジオ体操から始まり、日中の研修、クラブ活動、夜の自習時間を経て就寝時間まで、缶詰状態で研修生活を送ったのである。そして、初任者基礎研修も受講して、税務の基礎知識を身に付けたのである。
同期による私の人柄について、卒業文集の『むさしの』に「黒の皮ジャン、ギンギラスーツで6班の闇を支配する首領。しかし、心には淡い恋心を持つ純情な男」と書かれていた。ちょっとやんちゃ過ぎないかー。同じ6班の連中とは、今でも交流がある。
大学を諦めていた私だったが、夜学なら大学に行けるということを知り、これも何かの巡り合わせのような気がして受験した。商業科卒の私には難関だったのか二つの大学に失敗した。三つ目の法政大学は、受験科目に商業簿記があったからだろうか、やっとの思いで合格したのである。
KA税務署で始めて実務を経験した。新人の役割は、机や灰皿のそうじとお茶くみだった。当時、所得税部門には35名ほどの職員がおり、どの職員の湯呑みなのか覚えきれなかったので、湯呑みの下に名前を書いてそれを頼りにお茶配りをした。私はスリーピースにバギーパンツにカラーシャツといった出で立ちでチャラチャラしていた。仕事には何もこだわりがなかったのである。
税務調査の方は、統括官(統括国税調査官)や先輩の同行指導を受けてひとり立ちした。仕事にこだわりがなかった私であるが、同期が頑張っているのを見ているうちに競争心が沸いて来た。そして、結果が出た時に上司に褒められたことで調査が面白くなり、私の調査魂に火が付いたのである。成功体験が更なる成功体験を求めた。調査が面白くなると、とにかく『調査件数』にこだわって、人一倍調査件数を処理したのである。
夜学の方は、毎日終業のチャイムと同時に署を飛び出して1時間30分くらいかけて通学した。1限目には間に合わず、1限目の途中からの出席だった。当時独身寮に住んでいて、3限目まで受講すると門限には間に合わなかったのであるが、夜学に対する特例で許されていたのである。
TA税務署時代は、調査が厳しいことで有名な統括官と出会い、その指導を通じて、深度ある調査を行えば行うほど結果も伴うことを教えられ、こだわりが『調査件数』から『増差所得額』(申告所得額と調査所得額との差額で、これに基づいて追徴される税金が算定される。)、『数・量』から『質・内容』に変わって行ったのである。「数字は嘘を付かない」のだ。調査結果(件数から内容へ変化)へのこだわりが、私の正義感を育てたのではないだろうか。このころから、国税局の資料調査課を第一希望に、査察部門を第二希望にするようになったのである。
・・・<経験談①> 結果の妥当性、<経験談②> かつての職場
私的なことではあるが、私は生まれて初めてのお見合いに成功して結婚した。妻と付き合い始めて彼女の家に初めて行った時のことである。居間のサイドボードの上に集合写真が置かれていた。某税務署の庁舎の前での集合写真だった。その中心に着物姿の妻がいたのである。一日税務署長だった。「何という因縁なのだ」と思った。余計な話だが、ローカルなミスコンに優勝したのがきっかけだったとか。この余計な話は、自慢話にしかならないか。結局、私は署長になれなかったので、さらなる因縁を感じている。
本科研修は全国から研修生が集まった。通学が困難だったので寮に入った。四国の人と同室だった。研修所があった新宿区若松町界隈で同期とよく飲み歩いたものだ。本科で象徴的な出来事は、バレーボール大会で我が班が優勝したことだろうか。思い出は尽きない。同期による私の人柄について、卒業文集の『ぜいだい』に「いじめっ子。サッカー小僧。ゼミの鬼。討議で彼の右に出る者はいない。「そうじゃなくて!」を切り札攻撃とし・・・」などと書かれていた。確かにゼミは好きだった。自己主張が強かったことに納得。
講義は、教養講話も含めて居眠りもせずに、とにかくノートに書きまくった。書き洩らさないように、書くことにこだわったのだ。でも、結果は伴わなかった。書いていることに満足してしまって、記憶に残らなかったのだ。聞き漏らさない方が良かったのではないかと、研修が終わってから悔やんだ。ただ、後から読み返してみると当時の記憶が鮮明によみがえった。一所懸命に書いている私がいた。参考書としてけっこう使ったものだ。書いておいて良かったのかな。
TO税務署時代は、税務調査に協力的ではない団体に加入している納税者の調査を担当した。益々正義感を発揮していたころである。周りの人からは「納税者以外の人がいたら相手にせず戻って来い」と言われていた。でも、私は現場から逃げずに納税者と向き合った。その成果が実績で表われた。
この時は、これまでの調査の実績が認められて署長表彰を受けることができた。これを足掛かりに、希望していた資料調査課、通称『料調(りょちょう)』に配属されることになったのである。
ただ、これには条件が付いていて、私が独身寮の副管理官(厚生課)も併任し、妻も管理官補助の非常勤職員として勤務することになった。
資料調査課時代は、大口・悪質、調査困難事案の税務調査に当たった。料調は、いわゆる一匹狼で実績をバックにした「俺が、俺が」の猛者の集まりだった。任意調査だが無予告が当たり前で、納税者宅などに突然伺いながらも、調査協力を得るために納税者を説得するといった神経戦の連続だった。説得力と行動力で勝負した。管轄も埼玉、茨城、栃木、群馬、長野、新潟の6県になり、行動範囲も格段に広がった。月曜日に家を出て、帰るのは金曜日が当たり前になった。
・・・<経験談③> 人格と人格の勝負、<調査事例①> 執念の追跡
私は副管理官も併任していたが、普段は仕事ができなかったので、土日にその穴埋めをするような始末だった。妻は子供がまだ小さかったのだが、毎日働いて、寮費の集金や寮内の清掃や新聞・雑誌の整理などをした。酔っ払いにからまれたり、いかがわしい雑誌の整理に戸惑ったようだ。
ある在局の時、私と先輩二人が別室で仕事をしているところに上司が入って来た。上司が私達三人だけだと確認すると、「とんがりが集まっているな」と言ったのである。そのメンバーから推察して、「とんがり」とは勤務評価が「A」ということだろうと思った。ここでも実績を上げたのである。次に目指したのはマルサ(査察)だった。
査察部門時代は、『マルサの女』ならぬ『マルサの男』として、所得税、法人税及び相続税違反事件の強制調査や検察庁に対して告発をするための査察事務などに従事した。査察には、金の流れを追ったり潜入や尾行など、様々な脱税情報を収集するための内定調査を行って脱税事件を作り上げる『情報班』(通称『ナサケ』)と私が在籍した『実施班』(通称『ジッシ』)がある。それぞれ役割は違うのだが、どちらもその道のプロ集団である。実施班では、二人一組で一つの事件を担当した。一つの事件を告発するのに半年から一年位掛かるのである。『ガサ』(強制調査)は大勢で多数の場所に一斉に入る。脱税の嫌疑者の関係先に不意を突いて訪問し、令状を執行してガサ掛けするのである。検察庁に脱税を告発する際には告発状が作成されるのであるが、その告発状の告発人として事件担当者の名前が記されるのである。私の名前で告発したのである。ガサに入る時のあの緊張感と告発した時のあの達成感は今でも忘れられない。査察はハードで、配属された日から残業が始まった。庁舎の最上階に和室の大広間があり、数え切れない程泊り込みをしたものである。泊り込みが続くと、天気は窓から見えるが暖かいのか寒いのか、風があるのかないのかなど気候の感覚がなくなるし、ニュースなどを見る時間もないので世間に疎くなるのである。配属されて間もなくの出来事だった。歴代国税局幹部の親族が査察のターゲットになったのである。その後も現役査察職員の親族の事件が発生した。偶然にも私はこれらの事件を担当することになったのである。「ここまでやるんだ。査察ってすげーな」と、私が査察の姿勢にすごく感動したことをよく覚えている。
・・・<経験談④> 意見と改善、<経験談⑤> 何事も経験、<調査事例②> 機転の勝利
<続く>