エルズワース・ケリーと「ハードエッジ」ペインティング 今日の1冊 #020
CAHIERS D’ART/ELLSWORTH KELLY(2012, No.1)
1926年にパリのサン=ジェルマン=デ=プレでクリスチャン・ゼルボス(Christian Zervos)が創刊した美術雑誌「Cahier D’Art(カイエ・ダール)」。1960年に廃刊となったが、2012年にスウェーデンの富豪スタファン・アーレンバーグ(Staffan Ahrenberg)にが買収し復刊、本書はそのシリーズ第一号であり、アメリカの現代絵画の巨匠、エルズワース・ケリー(Ellsworth Kelly)を特集しています。ケリーの作品の他、オスカー・ニーマイヤー、サラ・モリス(Sarah Morris)や映画監督のシプリアン・ガイヤール(Cyprien Gaillard)、アルゼンチンを代表する芸術家のアドリアン・ビジャール・ロハス(Adrian Villar Rojas)らの作品も収録されています。
美術史家のイブ=アラン・ボワや建築家の安藤忠雄、建築・都市計画史家のジャン=ルイス・コーエン(Jean-Louis Cohen)らの文章も収録。
Ellsworth Kelly 略歴とアートワーク
アメリカの芸術家、ハードエッジの代表的作家として知られています。エルズワースケリー(1923–2015)は、ニューヨーク州ニューバーグで生まれました。幼い頃は病弱だったため、母や祖母にバードウォッチングを教わります。そこでケリーは、色彩や形への興味を持っていったと言われます。
パリの時代
エルズワースケリーがパリで過ごした6年間(1948年10月から1954年7月)は、彼の長いキャリアの中で最も生産的で独創的でした。18歳になるとプラット・インスティチュートに入学し、美術工芸を専攻。第二次世界大戦のためケリーは兵役につき、ヨーロッパに従軍したのち、1948年終戦後にはフランスに渡り、エコール・デ・ボザールで学びました。そこで彼は幅広い古典芸術と現代芸術に触れました。ケリーはフランスで、ジャン・アルプやジョン・ケージらと知り合い、また、ピエト・モンドリアンやフェルナン・レジェ、ロマネスク美術などから大きな影響を受けます。
彼の必死のフランス滞在中に達成された仕事で特に印象的なのは、その形式的な多様性にもかかわらず、表現の一貫性です。
ケリーの美学は禁欲主義の原則に基づいていました。彼のモットーは、発明することなく、作曲することなく絵画を生み出す方法を見つけることでした。
若いケリーは並外れた堅実さで、非構成のさまざまな戦略(転送、グリッド、チャンス、モノクロパネル、形作られたキャンバス)を探求しました。
ニューヨーク時代
1954年、ケリーは6年間のフランス滞在を終えてニューヨーク戻り、2年後にベティパーソンズギャラリーで最初の展覧会を開催しました。当時のアメリカでは、ジャクソン・ポロックらに代表されるニューヨーク派の抽象表現主義が主流となっており、ケリーの作風はすぐには受け入れられませんでした。その時期同様に主流から外れた作風と見なされていたロバート・インディアナ、アグネス・マーティンらといった作家たちと知り合い、交友を深めました。
1957年にはホイットニー美術館の「ヤング・アメリカ1957」展に参加。続いてニューヨーク近代美術館の「アメリカの16人」展に選出されるなど、次第に評価を高めていきました。
ニューヨーク近代美術館は1973年に彼の最初の回顧展を開催しました。その後の展示会は、ニューヨークのソロモンR.グッゲンハイム美術館、ロンドンのテートギャラリー、ミュンヘンのハウスデアクンスト、パリのセンターポンピドゥーセンターなど、世界中の美術館で開催されました。
ケリーは2015年に92歳で亡くなります。それまでに多くの傑作を残し、ハードエッジの代表的作家として現在に知られています。
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