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【風景を考える】 三次自然とそれと向き合う姿勢 #049


三次自然

20世紀最後の10年間は人と自然の関係にわずかながら重要な変化の兆しが現れた時期であった。先進国にお消す科学的技術の発展はそれまでのローテクが適用されたも野津k理の現早それを支えたインフラが選挙した土地を都市の余剰地へと押しやった。生産性の向上と経済のグローバル化に伴って空洞化した工業用地や息されたそれらの土地(ブラウンフィールド)にはこれまで見られなかった「自然」のカタチが出現し始めている。このような自然は三次自然とよばれる。人為的に全く干渉されていないかほとんど無視できる状態に維持されている原生の自然を1次自然、人に都合の王位用に慣らされ、ジニとの間に調和的なバランスが維持されている自然、例えば里地里山のような場所に現れる自然を二次自然と定義したとき、三次自然はその次のフェーズとして現れるであろう自然としての意味が込められている。臨海部の埋立地にしても廃棄された重工業生産施設の跡地にしても、更には高速道路高架下の空き地にしても従前からそこに存在していた自然の基盤は根こそぎ剥ぎ取られ、そこの痕跡はかなりのところもまで消去されている。無論、自然の基盤がまったくないわけではないが、あったとしてもsれらはあとから人為的に持ち込まれたものである。このような三次自然にはよってたつカッコとした基盤がなく、そこに定着したくてもできない、もしくは自らが基盤とならざるを得ない状態にある。そのような環境条件にてきおうしなければ自然を構成する要素は存続しえないし、見方を変えればm通常は存在しないような特殊な条件下にあるとも言える。

宮城俊作氏/設計組織PLACEMEDIA
エムシャーパーク 廃棄された工業生産施設に侵入する自然

予定調和から緊張状態へ

実は、このような条件をクリアして存続しうる自然の要素、例えば植生がそれほど多くないことは容易に想像できる。ところが、一旦この条件下で生き残った自然の要素にはかなりの好条件が拘束される。競争者が少ないからだ。エコロジカルなニッチが大きいとも言える。一方三次自然が立地するこのような環境条件については、これまでと比較しようとしても、その具体的な手がかりはないし、これまでの生態学の理論や経験知が当てはまらない。そのことと関係しているのであろうと思われるが、私達が目にする三次自然は、ローテクの技術によって作り上げられた産業基盤や都市基盤の中に侵入し、じわりとその勢力範囲を拡大しつつあるように見える。これは人為と予定調和的に存在してきた二次自然とは相反する関係に位置づけられるであろう。つまり、人の手によって飼いならされた二次自然風景がもたらしてくれる、ある種の安心感のようなものは、三次自然には期待できないのではないかということである。しかし、だからといって、この新しいタイプの自然が近代以前の人が自然に対して抱いていたような畏敬の念の対象となるかといえばそうでもない。あるいは、野生の自然がそうであったように人間の生存にとって危険極まりない存在になることはまず考えられない。
それでは科学技術は作り上げてた人工的な基盤の中に侵入しつつある三次自然との間に、私達はどのような関係を切り結ぶことができるのであろうか。あるいは、その関係をどのような風景の様態を通じて表象することができるのえあろうか。無論、すぐに結論を見ることのできる課題でないことは明らかであるのだが、なんらかの方向性を予測することくらいはできそうである。予測さえっるその関係は一言で言えば「緊張関係」だろうか。前述のような二次自然との間位に期待されていた安心感のある調和刊駅でないことはたしかである。三次自然は常に人間の傍らにあり、両者の間には微妙なバランスが維持されているが相互には物質的な関係を持たない。しかしながら、何らかのきっかけでその近郊がシフトしたときには、ダイナミックな風景の変貌をもたらす、そのような自然の様態が想像できそうである。その意味では、三次自然には野生の自然とは異質なミスティシズムが潜んでいるようにも感じられる。

宮城俊作氏/設計組織PLACEMEDIA
デューズブルク・ノルト景観公園の「ピアッツア・メタリカ(金属の広場)」
 ピーターラッツ2002


次の自然に向き合う姿勢

二次自然の次に現れつつある自然を対象としたときに、私達はどのような姿勢でデザインの行為に望むべきなのか、これは現時点においてすでにかなり重要な課題になりつつある。まず、現実には三次自然は時として既存の自然に敵対するものとであるという扱いを受ける傾向があることを認識していなければならない。いわずとしれた、生物多様性を脅かす外来生物種のことである。これらが在来の生物種の存続にとって重大な脅威となるのであれば、それらは、驚異の範囲内において排除されて然るべきものである。しかしながら、三次自然を構成する要素がすべからく青くであるような見方は一方的でしかない。三次自然が支配する土地に近代のランドスケープデザインが理想としてきたような自然を創出し維持することは技術的には可能であっても、その社会経済的コストは、残念ながら受容できる範囲を大きく逸脱するからである。ランドスケープアーキテクトが現実を直視することを求められる社会的職能である限り、この点は銘記しておかなければならない。
比較的はっきりとしていることは、一次、二次、の自然に比較して、三次自然はかなり早く変化する、場合によっては短期間で消滅してしまうことすらある。ということの認識が必要だということ。これに対しこれまでのランドスケープデザインでは、短い時間で移り変わるものに対する方法論はほとんど考えられてこなかったか、意図的に避けられていたようである。しかし、すべてが予定調和的にデザインされ、時間をかけてその調和像に向かって成熟していくというよりも短期間で変化する自然の動態に任せるところを部分的にでも確保しておくほうが、特に都市の風景はより豊かになるのではないか。二次自然と三次自然がつくる風景が相互的に関係しあいながら、一定の広がりを持った範囲の中に共存できる状態が目標になりそうである。無論、現時点では、そのための明確なデザインの方法を明示することは困難である。しかし、「次の自然のデザインリテラシーにおいて中心的な位置を占めるキーワードの一つは「プロセス」ではなかろうか。近代のランドスケープアーキテクチャーにおいては、目標とする風景の創造のための道程でしかなかった部分が、主題へと躍り出るのである。自然がもたらす動態的なプロセスを、美しい風景として表象するための枠組みを用意することがデザインの行為になるような予感がある。

宮城俊作氏/設計組織PLACEMEDIA
三次自然をベースとして整備された鉄道高架の上のプロムナード
ニューヨーク ピートアウドルフ


最後に


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