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マイルス・デイヴィス『イン・ア・サイレント・ウェイ』
マイルス・デイヴィスのエレクトリック期の音楽はファンを捉えて離さない魅力があります。それは魔術的で麻薬のように引きずりこまれます。魔術はくらったことも、麻薬は使ったこともないので、正しくは虜になります。
『イン・ア・サイレント・ウェイ』の場合、一定を刻むリズム、短い音の繰り返し「ヴァンプ」に魅力がつまっています。それはいつまでたっても始まらないし、終わりもしない感覚に満たされます。
1969年に録音されリリース。
メンバーはマイルス・デイヴィス(トランペット)、ウェイン・ショーター(ソプラノサックス)、チック・コリア (エレクトリックピアノ)、ハービー・ハンコック(エレクトリックピアノ)、ジョー・ザヴィヌル(オルガン)、ジョン・マクラフリン(オルガン)、デイブ・ホランド(エレキベース)、トニー・ウィリアムス(ドラム)です。プロデューサーはテオ・マセロです。
レコード基準で収録曲は、
A面に「Shhh/Peaceful」
B面は「In A Silent Way/It’s About That Time」です。
🔵ご注意ください
演奏時間の開始を秒でしるしますが、再生環境により違いがあるため目安として参照してください。
文章のなかに音名が出てきます。これは楽譜を引用したわけではなく耳コピです。ズレがあると思います。
🔵「Shhh/Peaceful」
曲の大半を占める土台は、リズムがハイハットをチャッチャカ・チャッチャカと叩くパターン、ヴァンプはラ→レと上がる流れです。このシンプルさが心地よく、身体が自然と動き出します。
Y:チャッチャカ・チャッチャカと叩くパターンは、約0:07から始まるドラムの音
A:ドドーン(ラ→レと上がる流れ)は、同じく約0:07から始まるベースの音
土台演奏はYとAの組み合わせです。ヴァンプはベースが担います。
「Shhh/Peaceful」
土台に気をかけて聞きます。これを一巡目とします。
①オルガンとギターのオープニングが始まり、次いで土台演奏が続きます
②マクラフリンのギター(約0:07〜)
③マイルスのトランペット(約1:45〜)
④間奏(約5:15〜)
⑤マクラフリンのギター(約5:54〜)、
⑥ショーターのソプラノサックス(約9:12〜)
⑦ハンコック、コリア 、ザヴィヌルらのキーボードとマクラフリンのギター(約10:42〜)
⑧オープニングの再演奏(約11:55〜)
⑨マクラフリンのギターの再演奏(約12:02〜)
⑩マイルスのトランペットの再演奏(約13:29〜)
という流れです。
チャッチャカのパターンとドドーンの土台演奏は、誰が弾こうと吹こうと繰り返されます。チャッチャカは他の曲でしばしば聞く音です。メロディのつなぎに使われますが、つなぎがいつまでたっても、つながらずそこに留まり続けます。
たくさん楽器が登場しますが、一巡目では鳴らすメロディの印象は残りません。耳に残るのは土台演奏です。いつになったら土台演奏が切り替わるんだろうとモヤモヤしていると「アレ?さっきも聞いたな。このフレーズ」と思っているうちにマイルスの再演奏(⑩)が聞こえ、次はと待ち構えていると曲が消えるように終わります。
CDや配信音源で聞くとオートプレイのため次曲につながりますが、レコードで聞くとランアウト、いわゆる無音部分に到着しA面で区切りがついて、カートリッジ をあげてB面に交代します。
マイルスの再演奏(⑩)のあとは間奏(④)とマクラフリンの演奏(⑤)が続くはずですが、音楽が流れない。いわゆる曲の終了を示すジャン・ジャカ・ジャーン的な演奏もない。曲が閉じたのか中断したのかどうか。
🔵「In A Silent Way/It’s About That Time」
曲の土台は、リズムがカンカンカンとスネアドラムのリムショットのパターン、ヴァンプは3つあります。B、C、Dです。こちらもシンプルです。
Z:カンカンカンと叩くパターンは、約4:15から始まるドラムの音
B:ドルドは約4:15から始まるベースの音
C:ポーンポーン(ラ→ラ♭、ラ♭→ファ)は約5:01のキーボードの音
D:ドーンドドドド(ファ→ラ→ラ→ラ♯、シ♭→シ→ド、ラ♭→ファ→ミ♭→ファ)は約8:22のベース音
土台演奏はZとCの組み合わせです。ヴァンプはキーボードが担います。
約18:18あたりから「In A Silent Way/It’s About That Time」
同じく土台に気を配りB面の一巡目を聞くと、
①オルガンとギターとソプラノサックス、トランペットのオープニングが始まり、次いで土台演奏が続きます
②マイルスのトランペット(約4:20〜)
③マクラフリンのギター(約5:01〜)
④ショーターのソプラノサックス(約9:15〜)
⑤マクラフリンのギター(約5:56〜)
⑥ショーターのソプラノサックス(約9:35〜)
⑦マイルスのトランペット(約11:55〜)
⑧リズムの高揚(約13:14〜)
⑨リズムの土台への回帰(約14:00〜)
⑩オープニングの再演奏(約15:42〜)
という流れです。
オープニングが再演奏(⑩)されたので、マイルスのトランペットが再演奏(②)がくると身構えていると、曲が静かに終わります。「これもアレ?」と感じます。オープニングの再演奏があるから、次はマイルスの再演奏のはずだが、またしても曲はあっさりと終わる。曲の終了を示すジャーン的な演奏もない。
🔵マイルス(とテオ・マセロ)の狙い
何か不足感やひっかかりがあり、ここで思わずレコードの盤面をひっくり返してしまいます。二巡目です。ちなみに、テオ・マセロです。
https://blog.excite.co.jp/ogawatakao/7472028/
B面からA面に替えてカートリッジ を落とすと、B面のオープニングに似たようなオルガンとギターが短く演奏されて、マクラフリンの演奏(「Shhh/Peaceful」の②)が始まります。これは一巡目で聞いたサウンドですが、なぜか自然なつながりの良さが醸し出されます。
A面の「Shhh/Peaceful」が進行するなかで、Aのヴァンプ以外にも「レ→レ→ラ→レ」と音が下がる流れ(約2:45、約11:00など)、チャッチャカのパターンが盛り上がるドラミングがあったり(約7:42、約8:50など)、ベース演奏の合流などが土台に追加されたかのように新しく聞こえます。同じくマイルスの再演奏が聞こえてきたと思うと、曲が煙のように消え入ります。
またここで不十分な感じがしてB面をかけます。「In A Silent Way/It’s About That Time」の再聴です。キーボードとベースのふたつのヴァンプのかさなり(約8:22〜)、ベースのヴァンプに合わせて下降するメロディを弾くキーボード(約11:03)、ヴァンプはCとも捉えられますが、Bでは?かなどなど、一度聞いているはずなのに未聞のサウンドが聞こえます。
一巡目に聞いたメロディも聞き分けられて、二巡目になるとまた違ったメロディが聞こえてきます。循環に入ります。何度も何度も繰り返すとデタラメに聞こえたキーボードの音が聞き分けられます。その素晴らしさに打たれます。音源は変わらないのに無限に新しい響きの虜になります。
マイルスが新鮮で美しく新しい音楽を演奏し、聞き手はそれをさまざまにキャッチする。聞くほどに新しい発見がある。聞き手は没入的に新しいサウンドを探して楽しみを見出す。いつまでたっても始まらないし、終わりもしない、新しい音に浸る。この音楽体験が『イン・ア・サイレント・ウェイ』です。
🔵夢中になるには時間がかかった
ところで私には良さがわかるのには時間がかかりました。
エレクトリック期の第一弾とも言うべき『イン・ア・サイレント・ウェイ』を聞くと、はじめは何を演奏しているのか。つかみかねます。
曲がテーマ・ソロ・テーマという伝統的なモダンジャズの形式ではなく、イントロ・Aメロ・サビ・アウトロというポップスのフォームでもない。
エレクトリック・ピアノ、オルガン、ギターが方向感がなく弾かれます。中心となるメロディを耳で探せない。リズムにも乗れない。
バンドにはギターのジョン・マクラフリンが参加しています。ギタリストがいる場合、いまどきの耳はギターの歪んだ音色やコードカッティングする切れ味が鋭いトーンを探しがちですが、そのギターのサウンドが響くところがない。
聞くにはかなり骨の折れるアルバムです。素朴にどうして世界屈指のミュージシャンが集まってレコーディングしているのに、なんともデタラメに聞こえるアルバムを制作したのだろう。
なせこうじゃないんだ?
🔵マイルス本人に振り返ってもらうと
マイルスは自叙伝で『イン・ア・サイレント・ウェイ』をどのように制作し本アルバムをどのように見ていたのか回想しています。
1968年は、多くの変化に満ちた年だった。だが、オレの音楽に起こった変化ほどエキサイティングなものはなかったし、そこらじゅうで聴かれる音楽も、信じられないようなものばかりだった。
それらのすべてがオレを未来に、あの「イン・ア・サイレント・ウェイ」へと導いていったんだ。
確かにマイルスのサウンドはエキサイティングに変化した。第二期黄金クインテットを解散しメンバーチェンジしたり、新メンバーの勧誘と引き抜き、マイルスはトランペットで変わらずですが、メンバーにはアコースティック楽器からエレクトリック楽器へ持ち替えを促します。エレキベース、エレクトリックピアノのフェンダー・ローズ、オルガン、ソプラノサックス。
変化の末に導かれた『イン・ア・サイレント・ウェイ』をマイルスは次のように評価します。
誰も聴いたことがないような音楽が「カインド・オブ・ブルー」でできたように、すばらしいミュージシャンが揃ってさえいれば、状況に応じて、そこにあるもの以上の、自分達でできると思っている以上の演奏が生まれることがオレにはよくわかっていた。
実際、「カインド・オブ・ブルー」の時も今度も、すばらしいミュージシャンが揃っていた。それが、オレが「イン・ア・サイレント・ウェイ」でやったことだ。
で、その通りに、すごく新鮮で、美しい音楽ができあがったんだ。
「新鮮で美しい音楽ができた」といいます。私からすると変化し過ぎたマイルスについていけない。「いつか王子様が」のようにキャッチーではない。
けれどもこちらが『イン・ア・サイレント・ウェイ』を聞くスタンスを作り変えてみると、そこには素晴らしい世界が開いています。
『イン・ア・サイレント・ウェイ』はリズムもメロディも多彩すぎて聞く人により聞こえが異なるためハミングでも素晴らしさを伝えれれない。
この良さは「ベートヴェンの何がいいんですか、教えてください」の質問にたいして、「聞いてみてください。聞けばわかります」的な音楽禅問答になりがちです。