紫陽花の栞 プロローグ【小説】
梅雨時の天気は変わりやすいと誰かが言っていた。それが誰の言葉だったかも分からないが、それを気にすることも無く今で過ごしてきた。こうして外に自由に出るなんてこと今ではなかったから、雨が降ろうと雪が降ろうと気にしたことは無かった。
今までなら、傘も持たせて貰ってたしなとそこまで考えてから今の状況をどうにかしなければと思う。どこかで雨宿りさせてもらうにしても、この辺りは民家ばかりで店などない。コンクリートの塀はあれど、屋根のあるような場所もない。
これは困った手詰まりだと諦めかけた時、ふと小さな暖簾が見えた。
今まで1度も見た事もないその場所は、アニメや漫画でよく見る昔の書店のように見えた。その周りには、紫陽花が植えられていて店先から上品な雰囲気が漂ってくる。
自分はこの店とは場違いな存在だと感じながら、仕方なく暖簾をくぐった。
店の中は木で出来た茶色い本棚が並んでいて、入り切らなかったであろう本が、その前に並べてあった。昔の本ばかりかと思いながら手に取ってみると、最近テレビで特集されていた『みずきただし』の作品があった。こんな田舎の古書店に流行りの作家の本が置いてあるとは思わなかったので、特集され、古書店に置かれている内容が気になり表紙を開いてみた。
題名は『紫陽花の古書店』。今いる書店の前にも紫陽花が飾ってあり、まるでこの書店の事のようだと思った。だから本がここに置かれているのだと、勝手に納得する。勝手に納得すると、急に興味が薄れてきて本を読む気力を失った。本を元の場所に戻して、ため息をつくとくすくすと笑う声が聞こえた。
「君にその本はお気に召さなかったようだね」
本の奥に赤いエプロンの青年が座っていた。端正な顔立ちをした青年は、男の目から見ても美しい。
「君、名前は?」
「……佐崎紫織。紫に織物の織って書いて紫織」
「ほう、いい名前だ。店先の紫陽花と同じ漢字が使われた綺麗な名前だな」
青年は感心したようにそう言うと、手元に置いてあった白いメモ帳にペンを走らせた。紫織は青年が、紫織の名前を女の名前だと言わなかったことに驚いていてその行為を深く気には止めなかった。今までに何度も何度も、男のくせに女みたいな名前とからかわれてきた。からかわれるのに慣れてしまった紫織は、今では名前を言うことも嫌がらなくはなったが、極力名乗るのは避けたかった。
だから、青年に名前を問われて直ぐに言い出せた自分自身にも驚いている。
紫織の様子を察したのか、青年は首を傾げたあと口を開いた。
「君も悩み相談に来たのかい?」
「……なんのこと?」
突然言われた言葉の意味が分からなくて、紫織は疑問を浮かべて問い直す。
「君もってことは、よく悩み相談に人が来るんですか?」
青年は紫織を見てから薄く目を細めてカウンターに置かれた紙を指さした。一体何が書かれているのか気になって、カウンターに近付き指の先を見る。
「お悩み相談受け付けてます……?」
読み上げながら青年を見上げると、青年は先程紫織の持っていた本を持ち上げて、差し出してきた。
「1度読んでみるといい。君の感性には合わないかも知れないが、読む価値ぐらいはある」
「そこまで言うなら……おいくらですか?」
本を受け取ってからポケットに入っている薄い財布を出した。すると青年は紫織の前に紙を差し出してきた。
「そんな薄い財布の少年からお金を取ろうなんて思わないよ。その代わり私の助手として働いて貰おうか」
差し出された紙をよく見ると、助手募集中、詳しくは神崎慧までと書かれていた。その紙と青年の顔を何度も見ながら、ようやく状況が呑み込めた紫織は自分を指さして問いかける。
「僕がですか?」
「君以外に誰がいるんだい?」
「いやいや! 僕には向きませんって!」
首を振って断ろうとすると、青年は人の悪い笑顔を浮かべて口を開いた。
「君、受け取っただろう? それを受け取った時点でもう逃げられないよ」
「なっ……!」
「さて、末永くよろしくね。佐崎紫織くん」
これが意地の悪い神崎慧との出会いだった。
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