自分を酷い目に合わせた親を「赦す」ということ
先日、知人と話す中で「自分を酷い目に合わせた親を『赦す』ということ」について、大きな気づきを得ました。
初めてお会いしたタイプの女性
話をお聞きしたのは、ご自身では意識していなかったものの、育たれた環境をお聞きする限り、どう考えてもアダルトチルドレン(AC)の女性。
でも彼女は、明るく強いとても素敵な女性で、これまで何度かお会いしていたのに、このような話を聞くまでは彼女がそんな凄まじく壮絶な環境で育ってきたことには、全く気がつきませんでした。
実際に、彼女は自己肯定感も高く、これまでに自殺衝動に悩まされたこともなかったようです。
こんな方には初めてお会いしたので、ACでもこんなに強く育てるんだということは私にとっても大きな希望になりました。
「育てなおしてあげたい」
彼女の幼少期の家庭での役割は、精神的にとても不安定な母親のカウンセラー的な役割。(「プラケーター/placater / 慰め役」と呼ばれるそうです)
彼女は、小さい頃から母親に振り回され続けた挙句、現在では年老いたその母を介護せざるをえなくなり、「なぜ自分を苦しめてきた人間の世話をしなくてはならないのか」という憤りと闘っていました。
本当はこの憎しみから解放されたいのに、母を「赦す」ことができないと。
そうして、しばらくお話しているうち、現在お子さんを立派に育てている彼女の口から、こんな言葉が出てきました。
「母は長い人生の中でとても不幸だったんだと、最近わかったんです。
でも、幸せなこともほんの少しはあったみたいで、よかったなって。でもなんだかかわいそうに思えてきて。
だから次に生まれ変わったら、私が母を産んであげたいんです。
自分の娘として愛情をたっぷりあげて、幸せな人生にしてあげようと。」
これを聞いて私はとても驚きました。
「それって、もう充分過ぎるほどに赦しているじゃないですか…!」
そういうと、彼女は目を大きく見開いて言いました。
「…本当だ!
奈緒さん、私は母をもう赦せていました。
そのことに今、気が付きました!」
「敵」だった存在を、慈悲の心で包むこと
不幸だった母を、自分が産みなおし、育てなおして幸せにしてあげたい。
こんな風に、昔は自分を苦しめる「敵」だった相手を、慈悲の心で優しく包んであげたいと思うこと。
これが「赦し」でないとしたら、いったい何を「赦し」と言えるのでしょう。
私自身、この言葉を理解したつもりで、ぼんやりとしかわかっていなかったことに、彼女との対話で衝撃を持って気がつかされました。そして、彼女のこのしなやかな強さと優しさに、心から敬服をおぼえました。
親は子供にとっては全てであり絶対的な存在ですが、今の年齢の自分を鑑みても、親になったからといって完璧な人格者になるわけではありません。子供と一緒に成長を続ける、発展途上で不完全な人間です。
酷い目にあわされた、ということを一旦頭から切り離して、「親も親なりに、あの頃は精一杯頑張っていたのかもしれない」と、ひとりの弱い人間として捉える。
それができるようになれれば、もうそれは「赦し」へのとてつもなく大きな一歩になるのではないでしょうか。
私の母が見せてくれた「赦し」
実は私も、最近、同じような憎しみの氷解を経験していました。
ある日、ホームに入所している超高齢の祖母の様子がおかしいようだと、母から連絡がありました。母と急いで駆けつけると、祖母は予想と反し大変元気でした。
胸を撫で下ろしてふと傍を見やると、ベッドに腰掛ける祖母の足を、とても愛おしそうに一生懸命マッサージしている母の姿が目に飛び込んできました。
祖母も相当な濃いキャラクターの人間で、直接聞いたことはありませんが、母も祖母から大変な目に合わされてきたようです。実家に同居していた頃も、二人が互いに反発しあい、半目しあう様子を毎日のように見てきました。
でも、マッサージを続ける母の姿からは、そのような憎しみは完全に消え去り、このまま健康に長生きしてねという嘘偽りのない願いが感じられました。途端に色々な思いが込み上げてきて、私は部屋から出て泣きました。
母は過去を乗り越え、私に「赦しの手本」を見せてくれた。ならば私ももう母を赦そう。憎しみの世代間連鎖でなく、慈悲の連鎖に変えていこう。
私の中で、これまで積み上がってきた怒りや憎しみ、絶望などが氷解した瞬間でした。
これからも、ときには、母のエキセントリックな性格とぶつかったり、母は母で私の強情さや頑固さに腹を立てることもあることでしょう。
でもそれは、これまでのように心に憎しみなどのわだかまりを抱えたままだったり、どちらかが一方的に支配をしたり逆に気を使い過ぎたりということがなく、フラットな関係でお互いに自由に感情を持つことができる、とても健全な関係です。
これからこうして母との関係を一から作り直すことで、穴だらけだった私自身の心を建設し直すことができるはず、そう感じられるようになりました。
「赦し方」は、100人いたら100通りの形があるでしょう。親と子の性別の組み合わせによっても、かなり様相が変わってくるはずとも思います。
また、以前にも書いたように、到底赦すに値しない親御さんがいらっしゃるであろうことも認識しています。
しかし、もし「赦したいのに許せない」「赦し方がわからない」と苦しんでいらっしゃる方がいたら、この話が何かのヒントとなりましたら、大変幸いです。
写真は、徹夜作業を終えて、早朝、アトリエから自宅へ帰る途中に目撃した大きな虹です。転換期となる時期にこのような虹を目にすることが多いのですが、その度に自分の歩んできた道が間違っていなかったんだと確認させてもらっているような気がします。うっすらと外側にもう一つの虹が重なった美しい美しい虹でした。
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