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だらだら時間も必要なのだ

2024年6月29日(土)〜2024年10月7日(月)まで、私は「100日チャレンジ」というイベントに参加していた。

このイベント期間で、自分の中にある「常識」や「思考のクセ」を徐々に上書きしていくことになったのだけれど、そのうちの1つが「だらだらしてもいいのだ」ということだ。

イベント内容を簡単に説明すると、日本発の時間術「タスクシュート」をベースとし、1日単位でタスクのプランを立て、タスクを実行したらログを取ることを100日間行う、というものだ。
さらに詳しくは、公式サイトをご参照いただきたい。

このイベント期間中、私はTaskChute Cloud 2というツールを使いながら、自分の24時間の行動ログを取り続けた。
ログを取らない時間もときどきあったし、ざっくりしたログの日もあったが、2024年6月29日(土)からほぼほぼ毎日、自分の行動を記録し続けた。

また、この100日間のあいだには、主宰者の方々によるメッセージがメールやPodcastで定期的に発信され、オンライン交流会なども行われ、私はタスクシュートのノウハウだけでなく、「時間」そのものの捉え方や、「自分の思考・行動」の見つめ方などについて、先駆者の経験談や知恵を毎日シャワーのように浴びることになった。

「だらだら時間も必要なのだ」ということは、そういうチャレンジ環境のなかで徐々に自分の中に染み込んできた意識である。

「だらだら」は、世間一般では悪しきこととされている。
悪しきとまで言わなくても、良くないこと=NGな行為と認識されているのではないだろうか。
実際、私もだらだらと時間を過ごしていると、なんとなく後ろめたい気分になっていたものだ。

今はちょっと意識が変わって、「だらだらしたって別にいいんじゃあないの」という感覚になっている。
「だらだらしてもいいのだ!」と断定口調にしないところが煮え切らない感じだが、「いいんじゃないのーだらだら過ごす時間も生きてる人間には必要でしょー」というユルさが今の私にはちょうどいい。

人間の行動は、自分自身の意思でコントロールすることはまずできない。
他者、天気、環境、情勢、身体の状態、無意識などなど他にも他にも、自分の意思以外のものによる影響を受けて動いているのだから、意思の力は無力に等しい。
だらだらしないと決意したとしても、それを忠実に実行するのは土台無理な話ということだ。

どうしてもだらだらしてしまうというのなら、そのときの自分にとって、だらだらすることがどうしても必要だったのである。

そう思うようになってから、私は気が楽になった。
ログを見て「あらま、こんなに時間が経っちゃったか」とは思うが、まぁそれだけである。

だらだらに善も悪もないし、自責する必要も特にない。
100日チャレンジで考え方を変えたものの1つである。

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