間違っててもいいから自分で決めることを温かく応援しよう
前回は「新プロパガンダ論」(辻田真佐憲、西田亮介著)のあとがきをまとめた。
今回は感想と印象的だったフレーズについて書いてみる。
1.全体の感想
あとがきは政策・メディアを専門とする社会学者の西田亮介さんが書いている。
各章では、西田さんの展開する論に対して、辻田真佐憲さんが確認したり、問いを立てたり、歴史学からどう捉えるかという観点で、喋っている。
この対談がふたりとも楽しそう。そして、政権批判一辺倒かというとそうでもなく、政治にインターネット戦略を持ち込んだ安倍政権や自民党のノウハウの蓄積に対して一定の評価をしていたように私は思った。
また、共産党のティックトックなどでのメデイア戦略も評価している。
一方で野党全体には与党批判に終わってしまうのではなく、新しい問いや今後の枠組みを考えることを求めているようにも感じた。つまりは、政権批判で終わらず、政策立案、社会構想を提示しようと言うこと。なるほど。
2.自己責任論と自己決定の関係
一番印象的で書き留めておきたくなったフレーズを引用しておく。
「市民が自己決定をし、かつそのことを尊重できる政治文化が前提にならなくてはいけません。そのうえで、自己決定と自己責任を区別し、自己決定を尊重しつつ自己責任論に陥らないパターナリスティックな政策を採用できる政府も必要でしょう。この両方が揃っていなければ、憲法改正の議論はできないと思います。」(P180、「4 コロナ禍と市民社会」より)
ぼくはパターナリズムという言葉がどうもあまり分かっていないので今一度調べてみた。
パターナリスティック(パターナリズム)とは、
強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益のためだとして、本人の意志は問わずに介入・干渉・支援することをいう。親が子供のためによかれと思ってすることから来ている[要出典]。日本語では家族主義、温情主義、父権主義、家父長制(ウィキペディア「パターナリズム」)
つまり、父が子を守るように本人の意志は問わずに温情的に支援することがパターナリズムだと言えそう。
そうすると、
「市民が自己決定をし、かつそのことを尊重できる政治文化が前提にならなくてはいけません。そのうえで、自己決定と自己責任を区別し、自己決定を尊重しつつ自己責任論に陥らないパターナリスティックな政策を採用できる政府も必要でしょう。この両方が揃っていなければ、憲法改正の議論はできないと思います。」
この文章の意味は
①.市民が自己決定をすること、そして市民が自分で決めたことを尊重できる政治文化が前提に必要だ。
②.「そのうえで、〜」
a.自己決定と自己責任を分けて、自己決定を尊重する(自己決定を支えるためにも、政府は、市民が自分で決めた結果を自己責任として責め立てないという意味かな)
b.市民の自己決定を温情的に支える政策(’自己決定が結果的に失敗だとしても、それを責めない人情ある政策)
①と②があれば、憲法改正議論はできる
という理解でいいかな?
はああ、それでもわからん難しいでも、めっちゃ大切な事が書いてあるように思う。
3.私なりの解釈
私は昔から自己責任論が嫌で嫌で、しかし、成長するためには自分で責任をとることはとても大切な気がしていました。
強いて言えば、豊かな者が豊かではない者に対して、なんでがんばらないんだ?という姿勢でしか見ていない風潮が嫌なんだろうか
西田さんたちの言っている意味はこのように解釈できないか?
間違っててもいいから自分で決めることを温かく応援する
市民は温かく応援されて、自分で決めて失敗してもやり直せる温かさがある状態でこそ
自分で責任をとりたいと思える。
そういうことじゃないだろうか。