ニート時々ぶた
ニート前、ニート、ニート後について
0,ニートになるまで
ぼくは10年前ニートになった。24歳だった。大学で下宿していた京都から親に引っ越しを手伝ってもらい帰ってきた。2年くらい働かずに実家で暮らしてた。
ニートの定義は教育や就労訓練を受けていないという定義だったはず。だで、ニートであった期間は正確には半年ぐらい。
2年の間に、大学をたまたま卒業できたのと、市役所のやってた起業塾に入っていたから。その2つに属していた期間を除くと、半年くらいニートだったのかな。
ぼくはいわゆる「普通」の家に生まれたと思ってた。親父は役場の役人だった。お袋は教員だった。小5でカンニングがバレて悔しくて勉強しようと思い、中学受験をした。成績はうなぎのぼりに上がる。たまに澤井さんは地頭がいいから。。と言われるけど、劣等コンプレックスがあっただけではないだろうか。中高一貫の私立に入った。大学は、東京は嫌いだったから、京都の大学に行った。
愛知県瀬戸市に生まれた僕は、地元が嫌だと思ってた。今思えば、家族を受け入れられなかった、そして、自分の器に満足していなかったのじゃないかと思う。
物心ついたときにはお袋は躁鬱病だった。閉鎖に入ってた時期もある。爺ちゃんは飲んだくれで、鬼殺しを使ってないゴミ箱に隠して飲んでた、ばあちゃんに小突かれ悪態をつかれながらトイレに行っていた。僕自身はアトピーで小学生の頃に一月入院してたときもある。
ちょっと不幸な子と映るだろうか。なんで自分の環境はこうなんだと思ってた。
ポジティブに書くと、親父は60過ぎまで役場で働き続けてくれた、ぼくたちのために。お袋は仕事をやろうとしたり、トライしてた。ばあちゃんはポーラのセールスレディをずっとしていた。じいちゃんは酒を呑んでも僕に手を上げないジェントルドランカーで、ガキの頃に共栄通りにあった立ち飲みでスルメを食べさせてもらった気がする。
1,ダメ期
連れが休学して留学してたし、なんとなく三回生のときに休学して韓国に留学した。22になる年だった。
4回生で、遅刻や提出期限を守れない、ゼミ旅行を爺ちゃんが危篤になったという言い訳を作り行かなかった(ほんとはあると思ってたパスポートが見つからなかった。)など僕側の理由で、卒論も書けず、留年コースとなった。就職活動はタリーズを受けて一次で落ちて、結局京都の珈琲屋にバイトで入った。
でも、留年してしまうし、水洗いの仕事で手荒れしていく。社長と喧嘩して、珈琲屋は辞めた。その後、珈琲屋を紹介してくれた先輩が僕を案じてナイトクラブのボーイの仕事を紹介してくれた。
そこで一年働いてた。徐々に酒の量を増やして、アトピーをひどくして、実家に戻った。たぶん卒論が書けないこと、将来への不安から酒に逃げて、不安だから体を掻いていた。当時は体を掻いてるのを決めてるのが自分だとは思えていなかった。
ナイトクラブのマネージャーのお別れの言葉を覚えてる。
「さわいくん、まずは体を治すことからやな」
そのとき、僕はおでこや頭皮から感染症で汁が出ていた、仕事の時以外は、ラッパーとは別の理由でニットを深く被っていた。誰にも気持ち悪いなんて思われたくなかったから。
まだ、なんとなくマネージャーに会いに行っていない。でもそろそろ会いに行きたいな。きっとボトル開けよか、さわいくんと笑顔で言ってくれるんじゃないか。
京都から逃げ帰ってきて実家で、初めの2,3ヶ月は寝たきりで、ひたすらケーブルテレビを見ていた。
そんなある日親父がパチンコ屋のチラシを持ってきて、お袋に金借りて行ってこいよ、イベントだでと言ってきた。初ギャンブルで、3万弱上がった。
そっから、怪しい攻略法に手を出したり、親が貯めてくれた定期預金を食いつぶし、家の財布から金をくすねはじめ、パチンコ屋に行くようになる。
アトピーが少し良くなった僕には、台を見ていれば、人とのコミュニケーションがあるようでないような、社交場は居心地がよかった。フード被ってても誰も何も言わない、勝てば一端のギャンブラー気取り。
パチンコ生活にうんざりして立ち寄った図書館で、市がやる起業塾のチラシを見つけた。
昔から映画が好きだったで、10年後コミュニティシアターがやりたいと起業塾に応募した。通い始めた新しい居場所。20人弱の、いろんな人がいた、本気の人はどんどん進んでいく。
僕は働いてもいないし、自分に自信もない、失恋をしたりで、釣りばかりして、塾には行かなくった。
塾の担当者が池に釣りに来た。担当は古くて安いテキサスリグを投げていた。それでは釣れんやろと思った。もちろん釣りに来たのは魚ではなかった。ということで、自分から卒塾のプレゼンには出るからと言って別れた。
卒塾プレゼンに出ても映画館の話はせず、釣りの話をしたのだけれど、仲間の一人がパワポを使って堂々と自分のビジネスプランについて喋っていた。元々はすこぐシャイそうな人だったから、余計に輝いて見えた。他にも自分と似ているところがあったからこの人みたいに頑張ったら僕もこういう風になれるかもと勇気をもらったのかな。
3,最近
派遣バイトを短期間やってアトピーを悪化させた後、塾で会った仲間のイベントや会社へお礼がてら見に行く中で、障害福祉の事業所に出会った。一年フリーターをした。でも、やっぱり正社員になりたくて、病院の介護士の仕事をした。1年やって人が何人か死んでいった。結局元の障害福祉の会社に戻らせてもらったのが7年前。今は中間管理職をしている。
その間、自閉症の社会人研修に1年参加して実践発表させてもらったり、インクルージョン教育のドキュメンタリー上映会を会社で企画したりしてきた、他にもいくつかやったと思う。
去年からはプライベートで不登校・引きこもり集まれの会をやってる、若者・引きこもり支援の全国大会で自分研究を発表させてもらいついでにラップしたり、自閉症の講師として勉強会や事業所に数回呼んでもらった。
今の僕の興味は、家族が病気(障害)の子供達(若者)のケアだ。自分の経験が活かせると思うで。ほんでも、同時に自分の生き直したい過去を相手に押し付けるのでは?とも思い、迷いもある。
結局タバコを吸い続け、酒を毎日呑んでいる。親や周りが悲しむから自殺だけはしないけど、時々自分が死ぬために生きてるんじゃないかって思う。
それでも生きてるのは、ここに出てきた人たちや出てきてない人たちに救われてるから。学校で、パチ屋で、起業塾で、病院でも、今の会社でも。
4,さいごに
元ニートが真面目に働いてます、がんばってますなんてメッセージを書いたつもりはない。僕が書きたいのは、ニートでもいいじゃん。犯罪を犯してたって、友だちがいなくたって、なんだっていい。ぼくみたいな不器用なやつでもなんとか生きてる。
もしもおまはんが土砂降りの雨の中にいたら、晴れ時々ブタを思い出しても良い。雨もこれがブタだと思ったらおもしろいやらあ。ブタがブヒブヒ言いながら、車に落ちてきたり、自分に当たりそうになる。いつかマイクロミニブタを飼いたいけど、僕の赤い車を潰したら、きっと落ちてきたブタを丸焼きにする。。
いや、案外飼ったりするかもしれない。大好きな車の名前をとって、ゴヒャク(500)と名前をつけよう。
「嫌なことには塩コショウ少々」
おしまい