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『反共感論』 スポットライトに照らされる人たちとそうでない人たち

1987年、アメリカのテキサス州でわずか1歳半の女の子が井戸に落ちてしまった。女の子の名前はジェシカ・マクローア。ジェシカの体は井戸の枠に引っかかってしまい、大規模な救出活動が繰り広げられるものの、なかなか抜けない。ああ、可哀想なジェシカ。救出活動はテレビなどでも盛んに報道され、アメリカの多くの人たちがその動向に釘付けとなった。そして58時間後、ようやくジェシカは救出される。よかった、よかった。

ところで、ジェシカはなぜそれほど注目を集めたのだろうか。それはおそらく、窮地にあるジェシカに多くの人が同情し、共感を覚えたからだろう。「もし自分が(あるいは自分の子どもが)ジェシカのようであったら」と考えて、恐怖や辛さを自ら感じた人も少なくなかったはずだ。当時の米大統領ロナルド・レーガンもこう語っている。「このできごとのあいだ、全米の誰もが、ジェシカの代母や代父になった」。

そのように「共感(empathy)」は、わたしたちを他者と結びつけ、他者へ働きかけるよう動機づける。共感があれば、家族や友人らと喜びを分かち合うことができる。共感があれば、目の前で苦しむ人を助けたいと思う。すばらしいことではないか。

だが心理学者のポール・ブルームは、本書で「反共感論」を展開する。たしかに共感はわたしたちの行動を強く動機づける。しかしそれがもたらす結果は、善いことより悪いことのほうが多い。それゆえ、「共感は道徳的指針としては不適切である」というのだ。

[共感は]愚かな判断を導き、無関心や残虐な行為を動機づけることも多い。非合理で不公正な政策を招いたり、医師と患者の関係などの重要な人間関係を蝕んだり、友人、親、夫、妻として正しく振舞えなくしたりすることもある。私は共感に反対する。

ここで、その反対論を見る前に、著者が何を「共感」と呼んでいるのかを確認しておこう。著者のいう「共感」とは、「他者が感じていると思しきことを自分でも感じること」、「他者の経験を経験すること」である。他人が喜んでいるのを見て、同じ喜びが自分のなかでも生じてくる。他人が苦しんでいるのを知り、自分も同じ苦しみを味わう。そうした情動的な共感こそが、著者が本書で問題にする共感である。

では、なぜ著者は共感(情動的共感)に反対するのだろうか。その理由はいくつかあるが、なかでも著者が強調するのは、「共感はスポットライトのような性質を持つ」という点である。スポットライトは一定の対象を暗闇から浮かび上がらせる。しかし、それが照らし出すのは一点だけだ。それと同じように、共感はわたしたちの注意を一定の対象へと向ける。だが同時に、それ以外のものは背景へ退いてしまう。そういうわけで、共感に動機づけられた他者へのふるまいはえてして偏狭になってしまうのである。

さらに詳しく見てみよう。共感がスポットライト的性質を持つことは、共感の射程が限定されていることと関係している。わたしたちは、家族、血縁者、友人、同胞、見知っている人、自分と共通点の多い人には共感を抱きやすい。それに対して、そうでない人たちにはなかなか共感を抱けない(共感の郷党性)。自分の子どもが心を痛めていると知れば、自分も同じくらい心が痛くなる。しかし、どこかの誰かが心を痛めていたとしても、それで自分も心が痛くなることはほとんどないだろう。

またそもそも、共感が向けられるのは少数かつ特定の対象だけだ。不特定多数の対象には共感の光はまず当たらない。それを裏付ける有名な実験(デボラ・スモール、ジョージ・ローウェンスタイン、ポール・スロヴィックによる)がある。次のふたつのケースで、アフリカへの食糧支援のために人々がどれくらい寄付したかを考えてほしい。ひとつは、特定の個人に焦点を当てた説明(「あなたが寄付をすれば、ロキアというこの写真の女の子の命を救うことができます」)を受けたケース。そしてもうひとつは、食糧危機に関する統計データ(「マラウイでは300万人を超える子どもたちが食糧不足に苦しんでいます」)を示されたケース。結果についてはおそらくもう予想がついているだろう。そう、前者の寄付金額は後者の寄付金額を顕著に上回ったのである(いわゆる「身元が分かる被害者効果」)。そのように、共感はその射程がひどく限定的で、数的感覚さえ欠いているのだ。

さて、以上の点を踏まえると、ジェシカに対する共感も手放しで賞賛できるものではないように思える。ジェシカのような対象(自分の周囲にもいそうな、誰だか特定できる女の子)にはいかにも共感が寄せられやすい。だが他方で、同時期に遠くで起きている大きな紛争や貧困などには、わたしたちの共感はあまりにも鈍感だ。実際、救出後のジェシカに70万ドル以上の寄付金が届いたことを考えると、共感の向かい先にはたしかに首を傾げたくもなるだろう。

というようにして、著者は共感の問題点を次々と挙げていく。しかしそれならば、わたしたちは共感に代わって何を道徳的指針に据えるべきだというのか。著者の答えは、「感じるのではなく考えること」であり、ひと言でいえば「理性」である。共感にもとづいて他者に働きかけるのではなく、理性を行使して「何をすべきか」を判断すれば、わたしたちはもっと適切な仕方で他者を思いやり、もっと公正な社会を築くことができるというのだ。

私たちは直観力を備える一方、それを克服する能力[=理性的熟慮の能力]も持つ。道徳問題を含めものごとを考え抜き、意外な結論を引き出すことができるのだ。ここにこそ人間の真の価値が存在する。この能力は、人間を人間たらしめ、互いに適正に振舞い合えるよう私たちを導いてくれる。そして苦難が少なく幸福に満ちた社会の実現を可能にする。

以上が、本書の議論のおもなポイントである。以上のような内容であるがゆえ、本書の議論には(賛成意見だけでなく)反対意見も数多く寄せられるにちがいない。とりわけ、「著者は共感の役割を意図的に軽視しているのではないか」という疑念は指摘されてしかるべきだろう。たしかに共感は、遠くにいる不特定多数の人々をうまく照らし出さないかもしれない。だが共感は、わたしたちが(とくに発達の初期段階で)身近な人と親密で協力的な関係を形成するときに、やはりとても重要な役割を果たしているのではないか。またそもそも、極端な郷党主義は問題外だとしても、遠くにいる不特定多数の人たちよりわが子を優先して何がわるいのだろう。思うに、本当に重要なのは共感と理性のバランスであり、使い分けではあるまいか。であれば、共感の働きを声高に否定するのもこれまた極端であるように思われる。

ただいずれにしても、本書が重要な問題提起をしているというのは間違いないところだろう。本書を読めば、「他者に対する共感の欠如こそが現代社会の最大の問題である」などと安直に結論づけられないことがよくわかる。幸いにして、この著者だからなのか、本書の議論はことのほかたどりやすい。他者とのよりよい関係を考えるために。そして、よりよい社会を築くための方途を考えるために。これはもう、読むっきゃないだろう。 


著者の前著。じつはこの本で著者は、道徳性の萌芽としての共感に言及している。ふたつの本における内容的な違い、強調点の違いが興味深い。

今回の本を読んでいると、著者がピーター・シンガーの思想に強い影響を受けていることがよくわかる。上で言及することはできなかったが、(感情ではなく)理性にもとづいて慈善活動を行う「効果的利他主義」の話など、シンガーのこの本には圧倒されるところが多い。

ジェシカにまつわる事の顛末と、「身元が分かる被害者効果」を実証した実験については、この本の第9章も参考になる。

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