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間違いは学習の原動力である 『脳はこうして学ぶ──学習の神経科学と教育の未来』

わたしたちは多くのことを頭で学ぶ。すなわち、わたしたちの学習はおもに脳が担っている。しからば、脳がいかにして学ぶかを知れば、わたしたちの学習と教育についても重要な示唆が得られるのではないか。本書は、そんな着想を具体的な形にまとめた一書である。

著者のスタニスラス・ドゥアンヌは、フランスの著名な認知神経科学者である。これまでに『意識と脳』『数覚とは何か?』などの著書があり、内容は硬派ながら、一般読者をも惹きつけてやまないエキサイティングな議論を展開してきた。今回の本でも、神経科学や人工知能、教育学などの知見をうまくミックスしながら、一般読者でも存分に楽しめる議論を繰り広げている。

本書は3つの部から構成されている。第I部では「学習とは何か」を問い、学習の定義を示したうえで、その含意を掘り下げていく。続く第II部では、「脳はいかにして学習するのか」を扱い、脳が「生まれ」と「育ち」の両方によって適切に配線されていくようすを明らかにする。そして第III部では、「学習の4本柱」について詳述し、学習と教育のあり方について具体的な教訓を引き出していく。

思うに、本書のどの部分がとくにおもしろく感じられるかは、読む人によって異なるだろう。ただ、本書のなかでとりわけ新鮮で、オリジナルな示唆に富んでいるのは、最後の第III部ではないか。そこで以下では、第III部の議論の一部を簡単に紹介することにしたい。 

脳の可塑性と学習の4本柱

いまやよく知られているように、そもそも学習が可能であるのは、脳に可塑性があるからである。わたしたちの脳は、生まれた時点ですでに、その基本的な構造が決まっている。だが他方で、個体が経験を重ねていけば、それに応じて脳の配線が変化していく。すなわち、ニューロンをつなぐシナプスの強度が変化し、神経回路の接続がより適切なものに調節されていく。わたしたちが何かを覚えたり、何かをできるようになったりするときには、そのようなシナプスの可塑的な変化が伴っているのだ。

ただし著者によれば、わたしたち人間の学習はシナプス可塑性だけに依拠しているわけではない。人間はさらに4つの仕掛けを利用することによって、自らの学習をより効率的なものにしている。そして、著者の言う「学習の4本柱」こそが、その4つの仕掛けにほかならない。具体的には、「注意」「能動的関与」「誤りフィードバック」「定着」がそれである。

では、わたしたちはそれらの仕掛けをどのように利用しているのだろうか。また、それらをさらにうまく活用するためには、どのようにしたらいいのだろうか。第三の柱である誤りフィードバックを例にして、その点を追ってみよう。 

誤りフィードバック、そしてテストの意義

近年、脳がたえず行う「予測」に注目が集まっている。脳はただ単に情報を受動的に処理しているのではない。そうではなく、わたしたちが見たり聞いたり、あるいは体を動かしたりするとき、脳はつねに予測を生成し、その予測信号を関連領域に送っている。そのような意味で、脳は並外れた予測マシンでもあるのだ。

さて、そこでポイントとなるのが、その予測が現実と食い違うときである。そうしたとき、予測信号と実際の入力との誤差が検出され、誤差信号が元の領域に送り返される。そうした誤差のフィードバックは、わたしたちが学習を行ううえできわめて重要である。なぜなら、脳はそうしたフィードバックを受け取ることで、シナプスの強度を再調整し、自らを修正していくからである(人工ニューラルネットワークにおける、誤差逆伝播による学習と同様である)。したがって、誤りフィードバックがなければ、そもそも学習は生じない。つまり、「誤りがなければ学習もない」のだ。

以上の指摘は、わたしたちの学習と教育に対して大きな示唆を与えるものであろう。学習において大事なのは、間違えないことではない。いやむしろ、間違いは学習の原動力であるとさえ言える。本当に大事なのは、誤りのフィードバックを与えることであり、しかも、迅速かつ正確にそれを与えることなのである。

ならば、たとえばテストの意義については、あらためてどう考えられるだろうか。ただの成績評価の手段として捉えるならば、それは必ずしも効果的なものではない(低い評価を受けたことで学習意欲を喪失する学生はたくさんいる)。だがその一方で、学習促進のためのツールとして活用するならば、それは非常に強力なものでありうる。実際、記憶に関する実験では、覚えるセッションとテストのセッションを交互に行うなどして、テストを受ける時間とその結果を確認する時間を増やしたところ、学習効果の顕著な伸長が見られた。それもそのはずで、テストを受けるときには、わたしたちはそれに能動的に関与するし、またその結果を確認するときには、わたしたちは誤りフィードバックを得るからである。そのように、じつはテストというのは、学習の柱をうまく活かせる効果的な手段なのだ。 

それは罰を与えることとイコールではない

本書ではほかにも、興味深い議論が随所で展開されている。赤ちゃんは「おむつをしたシャーロック・ホームズ」であり、確率についての推論能力さえ持っていること(第3章)。脳の可塑性には、障害を克服するなどの大きな可能性もある一方で、はっきりとした限界もあること(第5章)。そして、学習や教育は、別の用途のために進化した既存の神経回路をリサイクルして使っていること(第6章)。すでに述べたように、それらの議論のどれがとくにおもしろく感じられるかは、読む人によって異なるだろう。その点については、ぜひ自身で判断してほしいと思う。

最後に、ひとりの親として、わたしがいたく感動した一節を紹介しておこう。「誤りフィードバックは罰と同義ではない」として、著者はこう指摘する。

優れた教師は思いやりのある目で、生徒の間違いを優しく見守る。間違わないと学習できないことを認識しているからだ。できるだけ冷静に、生徒がどこで手を焼いているかを正確に診断し、生徒が最善の解決策を見つけるのを助けるべきだということを知っている。そうした教師は、すべての生徒が何度も同じ罠に陥るので、経験によって生徒がどこで間違うかを把握していて、生徒を慰め、安心させ、自信を回復させる適切な言葉を探す。そうして、生徒が頭の中の間違った表象を修正できるようにする。教師は真実を伝えるためにいるのであって、とがめるためではない。

たとえば子どもが宿題を間違えたくらいで、わたしたちはカリカリしたりすべきではないだろう。人生の教師として、子どもの間違いを許容し、それを楽しむくらいの度量を持ちたい。

 

著者の前著。「意識のしるし」や「グローバル・ワークスペース」など、きわめてエキサイティングな議論が繰り広げられている。

今回のレビューを書き終えたところで、次はこの本を読みたいと考えている。そう、「誤りこそが面白い」。

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