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「思考を停止させる決まり文句」などの狡猾なテクニック /[書評]『カルトのことば』

1978年11月18日、南米の一国ガイアナでのこと。「ジョーンズタウン」と呼ばれていた町で、アメリカから移住してきた人たちの集団自殺が発生する。死者はなんと900人超。彼らは「人民寺院」という新宗教の信者であり、彼らを自殺へと導いたのはその教祖ジム・ジョーンズであった。

2018年7月11日、ニューヨーク・タイムズ紙により報じられた衝撃的なニュース。それは、宗教団体「シャンバラ」の最高指導者と教師たちによる性的暴行を告発するものであった。以降、その勢力は急速に衰えていくことになるものの、その時点までにシャンバラは世界に数十の拠点を有するまでに拡大していた。

人民寺院もシャンバラも、間違いなく「カルト」に分類される集団である。そこには、カリスマ的な指導者がいて、それを熱狂的に支持する人たちがいて、さらには彼らの心理を悪用する構造が存在する。そのようなカルト集団によるおぞましいニュースを耳にするたびに、おそらく多くの人はこう疑問に思うのではないか。なぜ彼らはそんな馬鹿げた教えを支持したのだろうか。なぜ彼らは自分の身を危険に晒してまでその集団にとどまり続けたのだろうか、と。

本書は、言語という観点から、その疑問に答えるものである。著者のアマンダ・モンテルによれば、カルトが拡大・存続していくうえで何より欠かせないのが、ほかならぬ「言葉」である。カルト集団は、特徴のある言葉をそれぞれ有しており、それを駆使することで信奉者を獲得し、つなぎとめている。モンテルは本書において、破滅的な宗教団体から最近のきわどいフィットネス事業まで豊富な例を挙げながら、カルトによる言葉のテクニックを炙り出していく。では、以下でその議論をたどってみよう。

まず、カルトがそのメンバーの行動をコントロールできるようになるまでには、3つの段階がある。すなわち、「回心」「条件づけ」「強制」という段階である。そして、それらの段階のいずれに関しても、カルト特有の言葉のテクニックが決定的な役割を果たしている。モンテルはそのテクニックをいくつか挙げているが、そのなかでもとくに重要なのが、「私たちと他の人たちを区別するラベリング」「含みのある言葉」「思考を停止させる決まり文句」の3つである。

第一段階の「回心」について見てみよう。その段階のゴールは、自分たちの教えを人びとに吹き込み、自分たちの団体に人びとを加入させることにある。そして、そのときにとくに効果的なのが、相手に「自分は特別で、理解されている」と感じさせることであり、さらにその具体的な手段のひとつが、「私たちと他の人たちを区別するラベリング」を用いることである。

よく知られているように、カルト集団には独特の言葉遣いが多い。たとえば、UFOを信仰する終末論の団体で、これまた自殺カルトであった「ヘヴンズ・ゲート」では、台所を「ニュートラ・ラボ」、食事を「ラボ実験」、集団全体を「クラスルーム」、個々の信者を「スチューデント」などと呼んでいた。部外者からすれば「イミフ」でしかないそうした言葉は、しかし、その集団に接近しつつある人に対しては大きな影響を及ぼしうる。

そうした言葉は「すべてが秘密めいて興味をかきたてるから」、「もっと知りたい」という気持ちを生じさせる。そして、当人がそれらの言葉にある程度馴染んでしまえば、仲間意識が生まれるとともに、「[それらを理解できる]自分たちはほかの誰よりも優れている」と思うようになり、「[その意味を]知らない人たちを見下しはじめる」(以上、96頁)。これこそが、人びとを回心させるうえで、「私たちと他の人たちを区別するラベリング」が果たす役割である。

その言葉のテクニックは、もっと直接的な形で使用されることも少なくない。ヘヴンズ・ゲートでは、末尾に「オディ(-ody)」とついた名前が各メンバーに与えられていた。また、メンバーのことを「理解する才能を授かった者」「人間より上のレベルのメンバーの子」などと表現する一方で、主流派キリスト教信者たちは「偽りの神」に属し、「下等な力」に屈服した人びととして扱われた。モンテルも指摘しているように、そのような言葉遣いに馴れてしまえば、「周囲の社会から切り離されるのは『必然』」(97頁)であろう。

というのが、カルトが駆使する言葉のテクニックのひとつである。以下ではもうひとつ、「思考を停止させる決まり文句」のテクニックを見ておこう。

「思考を停止させる決まり文句」は、意義ある問題をごく簡単なフレーズでまとめることによって、それ以上考える行為を一方的に打ち切ってしまう。それがどのようなものかは、具体例を見ればすぐにわかるだろう。

「思考を停止させる決まり文句」は私たちの日常会話にも浸透している。「しょうがない」「男の子はいつまでたっても男の子」「起きていることにはすべて意味がある」「すべて神様の思し召し」、そして「あまり深く考えないで」などは、どれもありふれた例だ。ニューエイジ思想では、意味の停止標識が次のような狡猾な金言の形をとっていることもある。「真実はひとつの構成概念だ」「宇宙レベルで考えたら、まったく大したことはない」「私には複数の現実を受け入れる余地がある」「恐怖に支配されてはいけない」。(102頁)

このような言葉をカルトが巧みに使用すると、そのメンバーは「次に何が起きるか考えてはいけない」という気になり、通常であれば考えられないような行為にも至ってしまう。「人間より上のレベル」の意味がわからなかったとしても、「理解する能力を授かっていない」(ヘヴンズ・ゲート)と断じられてしまえば、それ以上何か言うことはむずかしいだろう。その教えに違和感を持ったとしても、そのたびに「受け入れたらどう?」(シャンドラ)のひと言で片づけられたとしたら、迷う自分にこそ問題があると感じてしまうだろう。「思考を停止させる決まり文句」はそのようにして、(「含みのある言葉」とも結託しながら)リスクの大きい行動を強制するのである。

以上が本書の議論のポイントである。すでに触れたように、本書は宗教団体だけでなく、「カルト的」と表現できるほかの団体・組織についても議論している。マルチレベルマーケティング(いわゆるマルチ商法、第4部)、カリスマ的インストラクターによるフィットネス・クラス(第5部)、そして、オンライン上に登場する過激派集団(第6部)。それらに関する議論も非常に示唆に富むので、ぜひとも最後まで本書を堪能してほしいと思う。

本書は、多分に深刻な問題を扱っていながらも、その話の展開に重苦しさは感じられない。むしろ、著者の見事なストーリーテリングもあって、「次はどんな話だろう」と終始ワクワクしながら読み進めることができる。原書はAmazon.comでなんと3900以上の評価を得ているが、実際に本書を読んでみればその評価の数にも頷けるはずだ。

着眼点が秀逸で、内容も勉強になる。そして何より、読んでいて楽しい。多くの人におすすめしたい本である。

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