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好きなように書けばいい

つれづれなるままに、日暮らし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。
(手持ちぶさたなのにまかせて、一日中硯に向かって、心にうつっていくつまらないことを、とりとめもなく書きつけると、妙に正気を失った気分になる)

徒然草

もう、これが原点であり結論じゃあないだろうか。暇だからといって一日中ものを書くだろうか。暇なだけで?いや、違う、好きで書いているんだ。(昔の朝ドラ「ちりとてちん」でもそういうセリフありましたね…遠い目)

noteには思惑いろいろ渦巻いているかもしれない。でも、なんだかんだ「書くのが好き」な人が「自由に書ける」場所なのではないか。それだけにいろんな人が様々なことを書いていて、何気なくタップしたら突然道ならぬ情事に行き当たったり、いわゆる差別用語を連発しながら世界に悪態をついている人に出くわしたりたりすることも、ある。ただ、それはそういう場所なのだ。noteにミュートワード機能がないことや、ブロックが「ブロックした相手がコメントできなくなるだけでこちらからも向こうからも読める」という「それは…ブロック…なの…か?」という謎機能なのもnoteが「好きなようにお書き!」「書くのも読むのも自己責任!」という方針だからなのだろう(って中の人じゃないので分からんけど)

「好きなように好きなことを書きたいんじゃ!何なら誰にも刺さらなくていいんじゃ!」って人もいるだろうし「書くからにはできるだけたくさんの人に読まれて共感されたい」という人もいるだろう。どっちもアリなんだろう。普段は後者だけど今日は前者、それもアリだ。

これは私がそうだから書くんだけどnote書いてる人の多くって実生活ではそんなに声が大きくない人でしょう?承認欲求なんてありません、私は謙虚ですって顔してるでしょう?でも本当は自己表現したくて、そしてその自己表現を他人から承認されたくてたまらないでしょう?一方で普段人に譲ってばかりだからnoteでは好きに振る舞いたいでしょう?(違うわ、という方たち、本当にすみません)だったら好きに書けばいいじゃあないの。

書くときの配慮だって人それぞれだしそれこそ、そういう(自由な)プラットフォームなのだから、私ができうる限りの配慮をしても誰かを不快にさせることはあるでしょう。それはお互い様だからしかたない、と思うのだ。

読み手に常に何かを与えられるかって?いやいやいや、ここに集う大多数はアマチュアですよね?私は読むときそこまで求めてないよ。それにいつも「そなたに有益なことを教えよう」って書かれてる記事って…息苦しくないかい?書く方も、読む方も。いーじゃないの。好きに書こうよ。そもそも書くのが好きで書いてるんでしょ?読まれることよりも「書く」が先にあるんでしょう?だったら書こうよ。読まれなければ自分が何度も自分の記事を読みに行けばいいじゃないの。


学校の作文コンクールは「先生」や「えらい人」にウケる必要があった。でもnoteは、学校のコンクールじゃない。自由な判断と自由な感性を持ったあらゆる人が、好きに書いていい場所だ。だから、恐れないで。萎縮しないで。私たちには、鳥の翼はないけれど、「ペン」がある。noteで、好きに、自由に、羽ばたくべきなのだ。

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