私には「魂のライティング」はできない
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私はエッセイであれ小説であれ、大きく人の心を揺さぶるものを書くことは目指していないし、自分にはできないと思っている。ひとつには、単純に力量不足がある。noteに集まる人たちの才能は、素晴らしい。特に私がnoteを再開したとき、ちょうど創作大賞の作品が募集中で、それはそれは「魂のライティング」記事(スピリチュアルな意味ではなく、魂を込めて書いた記事という意味)がずらっと並んでいる時期だった。才気あふれるライターたちがプロアマ問わず本気を出したらそれはもう圧巻である。でも、才能だけの問題とも言えないのだ。
多くのかたの耳目を引きつけるであろう独特のバックグラウンドなら、実は持っている。多分そこが私の「魂のライティング」ポイントだろう。なぜならそのバックグラウンドは私の人格形成や考え方、生き方に大きな影響を及ぼしてきているから。
ただ、そこにnoteで触れることは、それが良い意図であったとしても結果としてたくさんの大切な人たちを裏切ることや、自分の価値観を売り渡すことになりかねない。それに、こういう場所で主張をするのは、なにか「違う」のだ。いろいろな人やものを「売って」書いたところで世間の見方が良いほうに大きく変わるわけではない。むしろ逆効果になりかねない。私がとても大切にしているものを守る方法は「書く」ことではないのだ。
note上の多くの「魂のライティング」記事からはdisclosure(開示)することで、これまでの自分や自分の大切にしているものを守っている(肯定している)んだな、というのがひしひしと伝わってきた。
「魂のライティング」の中には、病気やトラウマや別離などの悲劇に起因する、あるいは出会いや学びや達成による喜怒哀楽、いや、もっと深層のむき出しの感情がたくさんあった。書き手たちがそれらを書くことを通して、自分を削りながらもいっぽうで自分を受容しているさまを、私はある意味では羨ましく眺めていた。
書けて、いいなあ。書くことで昇華されて、いいなあ。彼の彼女の問題や葛藤はまだ残っているかもしれないけれど、あんなにもあたたかく迎えられて、いいなあ。彼や彼女の中にはマイノリティと言われる人もいるけれど、受け入れようとする人たちが一定数いるマイノリティで、いいなぁ。
というのは、私はマイノリティだからだ、それも受け入れられにくい種類の。特に、この日本という国では。日本は、好きだ。でも、ほかの国にはほかの国の良さもあるだろう。「日本は生活しやすい国だが、生きにくい国だ」という言葉を聞いたことがある。私のような人には特にそうだろう。
ただ、いまの健康状態、経済状態では他国に移り住むことはできない。それに他国に行っても結局はマイノリティであることは変わらないし、さらにそこに「異邦人」というマイノリティが加わるわけだ。それに、どこの国にいるかはぶっちゃけあまり関係のない話なのだ。
さらに体調が万全ではない私はマジョリティの中でもマイノリティの中でも、やはりどのみちマイノリティというもどかしい立ち位置なのだ。
それでも、いや、だからこそ、私は書く。「魂のライティング」はできなくても、日々思うことは書ける。というより、これは私の持論なのだが-すべてにおいて恵まれて完ぺきに幸福なひとは、「何かを表現する」ことによって「補う」必要はないと思っている。私は、「補う」ために、そうすることでより幸福になるために、書く。幸福の追求は、私のような者も含めたすべての人に保障された権利であるはずだから。
そして、以前の記事でも書いたことがあるが、私は、個人的にはそれが病気であれ家庭環境であれ社会であれ組織であれ自分であれ何であれ「何か」や「誰か」を「生きにくさ」の直接原因にはしたくない。そして、私は、私の選択に誇りを持っている。
とはいえ…偏見にさらされたことのない人は、どんなにそれが胸が痛むことか知らない。1人で大勢のなか立ち上がったことのない人は、それがどれだけの力を要することなのかを知らない。知らなくても、いいのだ、もし世界がほんとうに寛容なら。
「待たなくてもいいよ 知らなくてもいいよ」とは「ハナミズキ」の歌詞だが、まさにそのとおり。
ああ、たくさんの、ほんとうにたくさんの、理不尽よ、せつなさよ、もどかしさよ、怒りよ。
でもこれはたぶん種類は違ってもたくさんの人が感じていることで。
魂では書けないなら、何で書いたらいいんでしょうね…とりあえず今、右手親指とスマホで書いています。そして、あとは頭?心?でもやっぱり魂の一部だと思うなあ、結局この記事も。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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